すぐる1980年代、「ニューアカ(デミズム)」という言葉とともに、新たな知のウエーブが思想・批評界を席巻する趣があった。
木田さんの「反哲学」が広く知られるようになったのもそのころである。西洋近代(思想)批判のフランス現代思想、構造主義やポスト構造主義などの論考がひしめく代表的な月刊誌『現代思想』に、木田さんは82年まで足かけ7年にわたり「メルロ=ポンティの世界」を発表している。そして、じっくりゆったりと、ハイデガー研究のおおきな成果を世に問うていく。
同様に、丸山圭三郎さん(故人)のソシュール読解を通した〝丸山言語論〟も目からウロコの衝撃があった。
当時、ともに中央大学文学部教授。所属の専攻こそ違うが(木田さんは哲学専攻、丸山さんは仏文学専攻)、≪中大文学部≫の名はいやでも高まった。一種はやりでもあった学外からの〝ニセ学生〟の聴講もずいぶん多かったことだろう。
「敗戦のとき16歳でした。テキ屋の手先をやったり、闇屋をやったりね。川崎あたりにあった軍の焼け残った倉庫からかっぱらって、オート三輪に積みこんで逃げだすんですよ。MPがピストルをぶっぱなす前にね。けっこういい商売になったんですよ」
哲学者のあいさつ代わりの経歴話に、あの爆笑問題ものけぞったものである。NHK「爆笑問題のニッポンの教養――爆問学問」(08年4月放映)。青春放浪話から哲学問答に喋々からんでいく爆笑問題の異能ぶりにも舌を巻くのだが、哲学者はうちとけて、たいそう楽しそうに見えた。
『闇屋になりそこねた哲学者』という著書があるくらいだから、闇屋・運び屋の才はなかなかのものだったようである。
シベリアに抑留されていた父(高級官僚)が奇跡的に帰ってきたのは、昭和22年の秋。
<ほんとうに間一髪でした。もし父の帰りがもう少し遅れていたら、ぼくは学校をやめて闇屋かヤクザになっていたでしょう。そうなったら、あともどりするのがたいへんだったでしょうね>
いまさらながらに、ホッと胸をなでおろす、深い吐息のような感慨が一文ににじむのである。
「ハイデガーの『存在と時間』を読みたい」。この一心から、木田さんの哲学研究は始まったという。しかし、その道の、なんと遼遠なことだろう。
1950年にハイデガーを読み始めて、「岩波20世紀思想家文庫」で『ハイデガー』を上梓したのは83年だ。ハイデガーではこれが最初の著書になる。じつに「33年」がたっている。
「カントは『純粋理性批判』を書くのに10年を要したが」とカントを引き合いに、同僚の須田朗・文学部教授(哲学)はこう書いている。「驚くべき息の長さ、信じられない『持続する志』である。先生は常々、哲学は時間がかかる、とおっしゃる。……先生ご自身の思想形成の歴史が、なによりもぼくたちへの励ましになっている」(文学部紀要・哲学科99年所収「木田先生を送る」)
東北大学の1年目はドイツ語、2年目はギリシャ語、3年目はラテン語、大学院に入って1年目にフランス語を、独学で勉強した、というエピソードも加えよう。
じっくり、根気強く。それが、悠揚せまらぬたたずまいの根っこ、だろうか。
ハイデガー研究の第一人者が唱える「反哲学」とは何か。たとえば、『反哲学史』の「はじめに」に、こうある。
<(今世紀の思想家たちは)「哲学」というものを「西洋」と呼ばれる文化圏におけるその文化形成の基本的原理とみなし、この西洋独自の思考形式を批判的に乗り越えようと目指しているわけです。……このような意味で「哲学批判」「哲学の解体」を目指す現代の思想家たちの基本的志向を、私は「反哲学」という概念に要約しようと思っているのです……>
ベケットらの「反演劇」、ロブ・グリエらの「反小説」などとも響きあう。
NHKのタイトルも過激に「哲学を破壊せよ」――「哲学の巨人にして哲学の壊し屋」だった。
ソクラテスは極めつきの皮肉屋だった。プラトンのイデア説が、ヨーロッパの思考の根底にある。デカルトの理性は神の出張所のようなもの、日本人が言う「理性(的)」とはまるで違う。ニーチェ以後の「反哲学」は、日本人と同じ感性。ハイデガーはすごいけれどもいやな男……『反哲学入門』では、古代ギリシアから20世紀までの「哲学」をひっくり返し、西洋的思考の限界をあばいてみせる。
塩野七生さんが<日本人はなぜ欧米人の「哲学」がわからないのか、その訳がようやくわかった>と帯に寄せたように、読みやすい、ああそうかと腑に落ちるのである。
現代文明に未来はあるだろうか。哲学は役立つだろうか。爆笑問題の問いに、傘寿(さんじゅ)(80歳)を過ぎた哲学者は悠然と答えたものだった。
「ないね。もっともそのころこっちは死んでいる。みなさん、お気の毒に」