オピニオン

新作長編『街とその不確かな壁』が描くもの

――村上春樹作品の変化と不変と――

宇佐美 毅(うさみ たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1. 村上春樹の作風の変化

 村上春樹作品は1990年代途中から変化したといわれる。「デタッチメントからコミットメント」への変化ともいわれ、孤独な若者たちの自閉的な内面を描く作風から、震災や宗教など広く社会問題を扱う作風へ変化したという構図で語られる。一方で、村上春樹作品はデビュー当時から近年に至るまで、変わらないといわれることもある。妻や恋人の死あるいは喪失という話型が一定している、比喩を多用した独特の文体が以前から変わらない、といった指摘である。

 一見対照的な指摘だが、それらはどちらも正しい。村上春樹の作風の最大の特徴は、個々の作品の内容が別の作品の内容へと継続していることである。ひとつの作品で描いた課題が次の作品へと引き継がれ、さらに発展して追究されていく。個々の作品の独立性・完結性が低いともいえるかもしれないが、個々の作品をこえた大きなスケールで文学を考えているということもできる。したがって、同じ課題に継続して取り組んでいくという意味では、村上春樹作品に変化がないともいえるし、その課題を常に更新させ、同じ場所にとどまらないという意味では変化し続けているともいえる。今回、6年ぶりの長編小説となった『街とその不確かな壁』にも、その変わらない部分と変わっていく部分の両方が示されている。

2. 『街とその不確かな壁』刊行までの経緯

 『街とその不確かな壁』の母体となったのは、村上春樹が過去発表した「街と、その不確かな壁」(『文學界』1980年9月号、今回の長編小説と同名だが「、」が付いている。)という中編小説である。この小説は書籍化されたことがなく、やがて『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年、新潮社)に発展し吸収された。村上春樹の場合、先に書いた短めの小説を後から長編小説に発展させることは多い。たとえば、「蛍」(『中央公論』1983年1月号)という短編小説を発展させ、その内容を吸収した『ノルウェイの森』(1987年、講談社)が刊行されたのが典型例である。ただ、今回は、既に一度長編小説化している作品であり、しかも40年以上も前の小説を新たに長編小説に発展させたという意味で、村上春樹の作品創作の上でも、特異な試みになっている。村上春樹自身が『街とその不確かな壁』の「あとがき」でその経緯を説明している。

 雑誌には掲載したものの、内容的にどうしても納得がいかず(いろいろ前後の事情はあったのだが、生煮えのまま世に出してしまったと感じていた)、書籍化はしなかった。(略)しかしこの作品には、自分にとって何かしらとても重要な要素が含まれていると、僕は最初から感じ続けていた。ただそのときの僕には残念ながら、その何かを十全に書き切るだけの筆力がまだそなわっていなかったのだ。(『街とその不確かな壁』「あとがき」)

 このように村上春樹は、過去の作品を「今なら」「今だからこそ」描き直せると考えて、この長編小説を発表したと考えられる。

3. 『街とその不確かな壁』に描かれる「壁」と「影」

 では、その『街とその不確かな壁』とはどのような作品なのか。

 作品中に登場するのは17歳の「ぼく」と中年になった「私」である。「ぼく」は16歳の「きみ」と交際しているが、「きみ」は突然姿を消してしまう。一方の「私」は、自分の影と分かれて「高い壁に囲まれた街」で静かに暮らしている。これが作品世界の設定だが、他の村上春樹作品同様に不思議なことが次々に起こっていく。そもそも「自分の影と分かれて暮らしている街」とは何なのか。それこそが、この作品の核心といってもよい。「街と、その不確かな壁」(1980年)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)『街とその不確かな壁』(2023年)に共通する設定・課題がそれである。「堅く高い壁によって囲まれた街」「影を失って生きる人たち」。この「壁」とは何か、「影」とは何か、ということが当然疑問になる。しかし、それらは作品中に明確には描かれていないし、明確にしようともしていない。それは小説を受け取る私たちに委ねられている。

4. 「壁に囲まれた街」とは

 とはいえ、作品中に一貫して示されている「壁に囲まれた街」の特徴がある。「壁に囲まれた街」では、人びとは自分の影から引き離されて生きている。引き離された影は次第に弱っていき、やがては死んでいく。そうやって生きている「壁に囲まれた街」には争いも好奇心も後悔もない。しかし、何かが欠けている...。それが一連の作品に共通して描かれている世界の特徴である。

 それでは「壁に囲まれた街」には何が欠けているのか。

 「この街には実体というものがないんだ。わかるかい?何もかもがキャンバスの上の書き割りなんだよ。よく考えてみるんだな。日が暮れれば遊園地は閉まる、それが決まりなんだ」(「街と、その不確かな壁」20章)

 「それと同じさ。この町の安全さ・完結性はその永久運動と同じなんだよ。原理的には完全な世界なんてどこにも存在しない。しかしここは完全だ。とすれば必ずどこかにからくりがあるはずなんだ。見た目に永久運動とうつる機械がなんらかの目には見えない外的な力を裏側で利用しているようにね」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』24章)

 「ここはなんだかテーマパークに似ていると思いませんか」と影は言って、力なく笑った。「朝に門が開いて、日が暮れれば門が閉まる。書き割りみたいな後景が至るところに広がっている。単角獣までうろうろしている」(『街とその不確かな壁』16章)

 「壁に囲まれた街」は安定している。平和でもある。しかし、その安定と平和はどこか作りもののようで嘘くさい。人間が人間として生きているという実感を欠いているのだ。村上春樹は、40年以上も前の作品の設定を再度用いてまで、なぜそのような街を再び描こうとしたのだろうか。

5. 村上春樹作品の変化と不変と

 先に、「同じ課題に継続して取り組んでいく」のが村上春樹の作風だと書いた。近年の村上春樹作品には、「人間を悪の世界に引きこむ力」や「カルト教団の内部世界」などが描かれることが多かった。しかし、この『街とその不確かな壁』には、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーのような「悪の権化」も登場しないし、『1Q84』の「さきがけ」のような「カルト教団」も登場しない。だとすれば、『街とその不確かな壁』は、近年の村上春樹作品の特徴を引き継いでいないようにも見える。しかし、どの作品も、実はその深いところでつながり合っているように思われる。

 『街とその不確かな壁』の中には、「壁」についての次のような考察も示されている。

 「そして壁は、すべての種類の疫病を――彼らが考える『魂にとっての疫病』をも含めて――徹底して排除することを目的として、街とそこに住む人々を設定し直していった。いわば街を再設定したんだ。そしてそれ自体で完結する、堅く閉鎖されたシステムを作り上げた。きみが言いたいのはそういうことか?」(『街とその不確かな壁』50章)

 ここで示された「システム」の完結性、堅牢さ、閉鎖性。それらは、近年まで村上春樹作品が描き続けてきた課題でもある。たとえば近年の村上春樹作品が「カルト教団」をしばしば取り上げてきたのは、その完結性、堅牢さ、閉鎖性を持った「システム」が、人びとの心を強く引きつけるのと同時に、人びとの心を蝕んでいく危険性をも持つからだった。イスラエルのエルサレム賞受賞スピーチ(2009年)の中で、「我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとっての硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています」と語ったことと響き合っている。だとすれば、『街とその不確かな壁』は、まさにそのような課題を引き継いでいる。人びとがシステムに身を任せてしまうことの危険性が繰り返し警告されている。

 『街とその不確かな壁』には、「人間を悪の世界に引きこむ力」も「カルト教団の内部世界」も登場しない。その意味では、村上春樹作品の変化を示している。しかし、そこに描かれている課題は一貫している。その意味では村上春樹作品が追究している課題は不変でもある。『街とその不確かな壁』は、村上春樹作品の変化と不変の両方を明確に指し示す作品として読者に届けられている。


<追記>
 この「オピニオン」が掲載されるのは『街とその不確かな壁』刊行の1週間後となっている。この文章の読者の多くは、まだ『街とその不確かな壁』を読んでいないと思われるので、この文章の中では、作品後半の具体的な展開や結末について、意図的に触れないこととした。

宇佐美 毅(うさみ たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1958年東京生まれ。1980年東京学芸大学教育学部卒業。1990年東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学、中央大学)。中央大学文学部専任講師・助教授を経て1998年より現職。

村上春樹をはじめとする現代文学を歴史的観点から考察し、明治期以降の日本の小説史に位置づける研究をしてきた。加えて、近年は文学に映画・演劇・テレビドラマ等を加えた総合的なフィクション研究を提唱しており、特にテレビドラマ研究を重視している。

主要著書に『小説表現としての近代』(おうふう)、『村上春樹と一九八〇年代』『村上春樹と一九九〇年代』『村上春樹と二十一世紀』(共編著、おうふう)、『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)などがある。

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