オピニオン

『ドライブ・マイ・カー』 ――小説の問い/映画の答え――

宇佐美 毅(うさみ たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1.小説の映像化とはどのような行為なのか

 文学部の私のゼミ(3、4年生連続の専門演習)を履修している学生たちの卒論テーマには、小説を原作とする映画の研究や、漫画を原作としたアニメの研究などがよく出てくる。そこでは、「小説のこのセリフが映画ではこう変更されている」とか、「漫画のこの場面がアニメではこういう場面に変えられている」とか、そういうことがよく論じられる。それも注目すべき箇所ではあるが、同じタイトルであっても異なるジャンルの異なる作品である以上、内容に異なる部分があるのは当然である。それを単純に比べれば研究になるというわけではない。それでは、村上春樹の短編小説『ドライブ・マイ・カー』を濱口竜介監督が映画化するという行為には、どのような相互作用が生じているのか。結論を先に示すのなら、両者は「問い/答え」の関係となっている。村上春樹が小説の形で提示した「死と再生」という問いに対して、目に見える具体的な「再生」の形を示すことによって回答を与えたのが、濱口竜介監督の映画化作品なのである。

2.映画『ドライブ・マイ・カー』とはどのような作品か?

 妻(霧島れいか)の不倫を目撃してしまった演出家兼俳優の家福(かふく)悠介(西島秀俊)は、そのことを妻に問いただすこともしないまま、妻を突然の病で亡くしてしまう。それから2年。広島で舞台演出を務めることになった家福に、その期間の専属運転手・渡利(わたり)みさと(三浦透子)がつけられる。渡利は頬に傷があり、無愛想な女性だが、運転の腕は確かだった。はじめは自分の車を他人に運転されたくなかった家福だが、次第に渡利と心を通わせていくようになる。

 映画未見の読者のために、映画の細部に触れることは避けるが、既に多くの指摘があるように、この映画作品は「再生の物語」だといえる。家福は妻の不倫を目撃し、その後「今日帰ったら話したいことがある」と妻から言われたまま、その妻を急な病で失ってしまう。それでも、車の中で台本の朗読を聞く習慣のある家福は、妻の死後もずっと、妻が生前に録音した声を聞きながら車の運転をする。それは、既となった不在の妻と向き合い対話し続けることでもある。そして、渡利にも頬の傷と同様の心の傷があった。お互いにその心の傷を語り、その上で、「ちゃんと傷付くべきだった」「立ち止まって向き合うべきだった」と語り合う2人は、過去に向き合い、それを正面から受けとめるべきだったことに気づくことになる。すなわち、この作品は、身近な人の死を受けとめきれず、それを心の傷として抱えたまま生きている者同士が、その傷に向き合い、そこから再生していこうとする物語なのだ。

 しかし、村上春樹の原作小説はそのように描かれていない。

3.村上春樹『ドライブ・マイ・カー』に描かれた諦観

 妻を失った俳優に新たな運転手がつけられるというストーリーの大筋は、映画が原作小説からそのまま取り入れたものである。しかし、小説では渡利の過去が詳しく描かれていないし、家福と渡利の会話もごく限定的なものにとどまっている。濱口監督がインタビュー(映画パンフレット)で述べているように、原作が短編小説であることから、『ドライブ・マイ・カー』だけではなく、他の短編小説である『シェエラザード』『木野』の一部を加え、さらにオリジナルな付加をおこなって、映画化している。だが、原作小説と映画化作品を比較してみるなら、その付加によって作品の世界観がかなり異なっている。原作小説の結末に近い部分で、家福と渡利は次のような会話をする。

「そういうのって、病のようなものなんです、家福さん。考えてどうなるものでもありません。(略)頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」
「そして僕らはみんな演技する」と家福は言った。
「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」

 「呑み込んで、ただやっていくしかない」「みんな演技する」と語られているように、ここにあるのは、すべてを明らかにすることなどできない、それを受け入れていくしかないという「諦観」、諦めのような境地である。それを示すことで、村上春樹小説は「死と再生」の困難さを読者に問いかける。それは、過去を問い直すことで再生しようとする姿勢を描く映画版とは、むしろ対照的な終わり方になっている。

4.村上春樹の作風は謎を残すこと/完結しないこと

 それでは、村上春樹の原作小説と濱口竜介監督の映画化作品は背反する内容になっているのか。そうではない。村上春樹の作風は、もともと個々の作品で完結する明確なメッセージを発しているわけではなく、一つの作品の課題が他の作品に継続して追究されるという特徴を持っている。たとえば、映画『ドライブ・マイ・カー』の基になった短編小説3作はいずれも『女のいない男たち』という短編小説集に収められた作品であり、女性に去られてしまった男性の心の内側を描く小説集である。しかも、この課題は単にこの作品集1冊にとどまるものではない。村上春樹初期作品では、自殺によって主人公の前から去ってしまう多くの女性を描いてきたし、その後『ねじまき鳥クロニクル』では夫の前から失踪する妻として描かれた。他にも、「書くことの意味」「カルト宗教」「人間を悪に引き込む力」といった課題が、個々の作品を越えて、多くの作品に継続して追究されてきた。むしろそれが村上春樹という作家の作風なのである。

 ちなみに、私の授業で履修者にアンケートをとってみたことがある。個々の作品でその意味が完結しない村上春樹作品の特徴について尋ねたところ、「そういう作風が面白い」「作品の謎の部分に興味が湧く」という学生と、「話が終わらないからすっきりしない」「好きになれない」という両方の学生がいた。こうした対照的な読者を生み出すことも、村上春樹という作家の特徴なのである。

5.村上春樹作品を映画化するということ

 映画『ドライブ・マイ・カー』は、多くの観客に対して、心の中に抱える傷からの再生の形を示すという明確なメッセージを発している。それは、ベタ(露骨)なほどの明らかさ、わかりやすさといってもよいくらいだ。映画『ドライブ・マイ・カー』が作品賞など4部門にノミネートされたアメリカのアカデミー賞の選考委員は、その大半が映画業界関係者であり、その選考はもともと商業的な性格が強い。映画『ドライブ・マイ・カー』の明確なメッセージ性が、こうした選考の性格にぴったりと合致したことは間違いない。村上春樹小説のやや謎めいた問いかけが、映画という明確な形に再生産されることで、多くの受容者の心に響いた結果が今回のノミネートなのである。

 この現象から私が連想するのは『オペラ座の怪人』や『美女と野獣』などの実例である。これらの作品はミュージカルや映画で全世界の人びとに流通しているが、その人びとの中で、原作となる作品を読んでいる人はごくわずかであろう。内容的にも、原作とミュージカル版や映画版とは大きく異なっている。そのような大きな改変は、原作を損ねたというよりは、多くの人びとの心に届くような形に作品を描き直す行為だったともいえる。そして、それに似たことがこの『ドライブ・マイ・カー』という小説と映画の間に生じている。

 村上春樹作品は多くの謎を残したまま、読者に向けた問いかけとして届けられている。それに具体的な形を与え、一つの答えとして示したのが濱口竜介監督の映画版なのだ。それが唯一の正しい答えであるとはもちろんいえないが、多くの観客に支持される重要な答えだったのである。

宇佐美 毅(うさみ たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1958年東京生まれ。1980年東京学芸大学教育学部卒業。1990年東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学、中央大学)。中央大学文学部専任講師・助教授を経て1998年より現職。

村上春樹をはじめとする現代文学を歴史的観点から考察し、明治期以降の日本の小説史に位置づける研究をしてきた。加えて、近年は文学に映画・演劇・テレビドラマ等を加えた総合的なフィクション研究を提唱しており、特にテレビドラマ研究を重視している。

主要著書に『小説表現としての近代』(おうふう)、『村上春樹と一九八〇年代』『村上春樹と一九九〇年代』『村上春樹と二十一世紀』(共編著、おうふう)、『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)などがある。

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