日本の大学が有意義で魅力的であるためには?
青木 裕子(あおき ひろこ)/中央大学法学部教授
専門分野 政治学、政治思想史
学生が提示する「わざわざ行く価値のないもの/あるもの」
デルタ株の感染が収まり始めた2021年度秋学期は、本学でも教室での対面式授業が再開された。しかしながら、対面式授業が再開されても学生が教室に来ない、という事態が生じた。
私が担当している授業でもそうであった。私の授業は、コロナ禍で外出に不安を抱える学生に配慮してハイブリッド型で実施しており、授業を録画して配信もしている。録画配信した授業は、学期中は繰り返し視聴できるようにしている。
秋学期が終わりかけている今わかってきたことは、ハイブリッド型でかつ録画配信もしている限りにおいては、教室に来ないことを選択する学生が大多数で、そのような学生はコロナ禍で外出に不安がある学生ばかりではないということである。この傾向は、私の授業に限ったことかもしれないと当初は思っていたのだが、本学や他大学の先生方の間でも同じように感じている向きが多いようだ。大教室における大人数の授業、中教室における中規模の授業でこの傾向は顕著である。少人数の専門演習(ゼミ)の学生は全員教室に来ている。ある一年生は、2時限目の体育が対面式なので大学に来ているが、それがなければ大学には来ないと言っていた。一年生は大学にも慣れておらず、友達をつくる機会もこれまでそれほどなかったはずであるが、もはやキャンパス生活に期待することはあまりないということなのかとも感じ取れ、驚いた。
これは一体どういうことなのだろうか。2020年度の時点では、学生たちはキャンパスに来ること、教室で授業を受けることを望んでいたはずだ。大学で友達をつくることもできないと嘆いていたではないか。他大学では、対面式授業もなく大学の施設も使えないなら授業料を返してほしいという訴えを起こす学生までいたではないか―――。学生はすっかりオンライン生活に慣れて、リアルなキャンパス生活よりも気に入ってしまったのだろうか。または、学生は学生なりにこの二年間、コロナ禍に適応する中で、現実を前向きに捉えようと健気に努力してきた結果、そうなったのだろうか。
もちろん、オンライン授業を中心とした学生生活は悪いことばかりではない。学力の向上、知識の習得という点ではむしろ良い面もある。録画配信された授業は何度でも視聴することができるので、少なくとも聴き逃すことはなくなる。都合の良い時間に視聴できるので、色々とスケジュールが立てやすい。通学に時間をとられなくなる。また、オンライン授業を家にずっといて受講しているとは限らない。キャンパスにはいるが教室外で、友達とお菓子を食べながら、内容について話し合いながら受講しているかもしれない。勉強のスタイルが自由になるのはよいことである。何事につけても選択肢が増えていくことは素晴らしいことで、歓迎すべきことであると思う。
このように学生は、「わざわざキャンパス/教室に行く価値はない」ものと、「キャンパス/教室に行ってこそ価値がある」ものとを意図せずして選別して、私たちに提示しているかのようだ。この選別が今後明確化していくと、演習系・実習系は対面式で、講義系はオンラインでという二分化や、大教室不要論などが検討されていくことはある程度予想できるが、もっと何か、現時点では予想だにされていないようなことも検討の対象になっていくかもしれない。また、授業や教育のあり方だけではない。試験や入学選抜試験のあり方についても検討されていくだろう。ある日に受験生を一同に集めて実施される、日本型の一発型入学試験の意義も問われるだろう。
授業のあり方、教室のあり方、キャンパスのあり方とデザイン、ひいては大学そのもののグランド・デザインは変わらざるを得なくなっていくだろうし、それを展望することはわくわく感もある。法学部の茗荷谷キャンパス移転を目前に控えている本学にとっては尚更のこと、「選択肢が増えるような」キャンパスのあり方、大学のあり方を考えていく好機のような感もある。
コロナ禍によって問われる「キャンパスは何のためにあるのか」
さて、このようなことを踏まえてもやはり気になるのは、既述のように学生がオンライン生活に慣れてキャンパス生活に期待しなくなったように感じられることだ。「単位を取得して卒業、就職さえできればよいのだから、わざわざキャンパスに行く必要がないなら、なるべく行きたくない。時間を有意義に使いたい。」ということだろうか。
単位を取って卒業するだけなら、または、資格試験合格を目指して勉強するためだけならキャンパスは不要かもしれない。しかしながら、大学というのは様々な人や考えが交差する場。学生はキャンパスで、色々な人との接触や、書物や学問を通じて、それまで自分が考えていたことと全く異なる、あるいは共感できる考え方や価値観に遭遇する。仲間とともに何かをしたり、意見を率直に交換したり、ダラダラとお喋りをしたりする。大学はそこに集う人々に、「未知との遭遇」や社会生活を提供しているのである。もちろん、こういったことがオンラインでも十分に、あるいは今まで以上にできるという社会になっていく未来への展望もある。しかし現時点では、コロナ禍で学生の足がキャンパスから遠のいた帰結として、日本の大学がずっと以前から抱えて続けてきた問題、つまり、日本の学生にとって大学とは、「単位を楽な方法で取って卒業さえできればよい。卒業して希望する就職さえできればよいのだから」というだけの場所であることの問題が益々顕在化してしまっていないだろうか。
海外ではどうなっているのだろうか。アメリカの大学の現状に詳しい知人に聞いたところ、コロナ禍でもアメリカの学生は寮生活を含むキャンパス生活に戻ることに積極的であるらしい。アメリカの大学では学生の勉強への熱量は、日本とは比べようもないほど高いとよく言われる。アメリカのアイビーリーグと言われるトップ校では特にそうで、日本よりも単位認定が厳格で、また、日本とは異なり学生がキャンパス内の寮あるいはキャンパス近くに住み、大学図書館が24時間開いていて、夜中でも図書館に多くの学生が集まり勉強している。コロナ禍を経てそのような違いが益々広がるのではないか。このままでは日本の大学は、学生にとって単位さえ取れればよい、資格試験の勉強さえできればよいというだけのものに益々堕して、その存在意義が問われるようになるだろう。また、留学や海外との研究交流のオンライン化が進めば、つまり、オンライン化によってグローバル化のスピードが加速して、選択肢が増えていけばいくほど、日本の大学の存在意義が薄れ、日本の大学を選択肢として魅力的と感じる人が国内外で減少することが危惧される。
日本の大学の存在意義は?
最後に、学生にはコロナ禍に従順になりすぎて、他者とコミュニケーションすることを諦めないでほしい。その一方で、リアルでない世界に抵抗のないリモートワーク世代の旗手としても頑張ってほしい。また、日本の大学は、単に単位を取るだけの場、就活学校に堕さないように、その存在が有意義で魅力的であるように、海外の大学も参照しつつ努力して変わっていかなくてはいけない重大な局面にあるのではないかと考えている。
青木 裕子(あおき ひろこ)/中央大学法学部教授
専門分野 政治学、政治思想史東京都出身。中央大学法学部教授。2020年より現職。
国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程修了。博士(学術)、Ph.D。専門は政治学、政治思想史。18世紀スコットランド啓蒙思想を中心にデモクラシー、リベラリズムについて研究している。現在は、コモン・センス哲学とアメリカにおけるプラグマティズムとの影響関係を研究課題としている。
主な研究業績:
・青木裕子(2010)『アダム・ファーガスンの国家と市民社会』勁草書房。
・Yasuo Amoh, Darren Lingley and Hiroko Aoki eds. (2015) Adam Ferguson and the American Revolution, Kyokuto Shoten.
・アダム・ファーガスン(2018)天羽康夫・青木裕子訳『市民社会史論』京都大学学術出版会。
・青木裕子・大谷弘編著(2020)『「常識」によって新たな世界は切り拓けるか―コモン・センスの哲学と思想史―』晃洋書房。