オピニオン

寅さんが教えてくれたこと

宇佐美 毅/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1.車寅次郎は物事を突き詰めすぎない

 映画『男はつらいよ』の主人公「寅さん」こと車寅次郎という人間の意義を、私はこれまで考えてこなかった。車寅次郎という存在は、もちろん知っていた。この国に生きていて車寅次郎を知らない方がおかしい。しかし、車寅次郎という人間を、これまで、たかが娯楽映画の主人公だと見くびっていたのかもしれない。遅ればせながらこの映画をあらためて見直してみて、この映画と人物像の意義を考えずにはいられなかった。

 車寅次郎というヒーロー像についての考察はこれまでにもあった。そこでは、寅次郎の「自由で気ままなところ」「やさしくてあたたかいこと」などの特徴が論じられている。それも確かにそうなのだろう。しかし、それだけではない。車寅次郎という人間の本質は、人とすぐに親しくはなるものの、それ以上の深い人間関係を結ばす、物事をあえて突き詰めようとしないところにある。

 『男はつらいよ』という映画は、無学な風来坊・寅次郎が旅先で美しい女性に恋をして、少しうまくいきそうになる場面もあるが、最後には寅次郎がふられてしまう、という構図の作品だと思われているかもしれない。たしかに、寅次郎には学がない。第40作『男はつらいよ サラダ記念日』で早稲田大学の学生たちと滑稽な会話を繰り広げる場面もあるように(渥美清は中央大学の学生だったことがあるので、できれば中央大学に来てほしかったが)、たしかに寅次郎には学歴も教養もない。しかし、学のある高校教師に意見する場面もあるし(第42作『男はつらいよ 僕の伯父さん』)、恋愛に関しても、寅次郎がいつも「ふられる」とは限らない。

2.車寅次郎はふられるとは限らない

 寅次郎がもう一押しすれば恋が実るように思われるにもかかわらず、彼はそれ以上前に進もうとはしない。第29作『男はつらいよ あじさいの恋』では、寅次郎を追って丹後から東京にやってきたかがり(いしだあゆみ)から鎌倉で会いたいと手紙を渡される。すると寅次郎はわざわざ甥の満男を連れていき、かがりと二人きりにならないようにする。そして、よそよそしい寅次郎は、かがりから「今日の寅さん、なんか違う人みたいやから」「あたしが会いたいなあと思ってた寅さんは、もっとやさしくて、楽しくて、風に吹かれるタンポポの種みたいに自由で気ままで」と恨み言を言われてしまう。また、第45作『男はつらいよ 寅次郎の青春』では、寅次郎を引き留めたい蝶子(風吹ジュン)を残して油津を去ろうとして、蝶子をひどく怒らせてしまう。こうした、自分から身を引いて、恋を実らせようとしない行為は、寅次郎の単なる鈍感さや自信の無さが理由だと考えられないこともない。だが、必ずしもそうではない。寅次郎のこうした行為について、寅次郎の人間性をもっともよく理解している甥の諏訪満男(吉岡秀隆)は、その『男はつらいよ 寅次郎の青春』の中で次のように意味づけている。

違う、伯父さんは帰るべきだ。伯父さんがここに残ったら、もっと大きな悲劇が待ち受けるだけだ。そりゃ最初はいいよ。伯父さんは人を笑わせるのがうまいし、楽しい人だから、あのおばさんも幸せかもしれない。けど、伯父さんは楽しいだけで奥行きがないから、1年もすれば結局飽きてしまう。伯父さんはそのことをよーく知ってるんだ。だから帰ることを選択したんだ。ね、そうでしょう、伯父さん。

 これは映画のコメディ要素から作られたセリフであろうが、満男は、伯父の寅次郎の本質を実は鋭く見抜いている。

3.甥の満男は車寅次郎になりたくてもなれない

 ちなみに、『男はつらいよ』という映画シリーズ後半の最大の功績は、甥の諏訪満男という車寅次郎の理解者を作品の中心に据えたことだ。晩年の渥美清が健康を損ねていて、映画の出番を減らさざるを得なかったことはよく知られている。そのためにしかたなく満男の役割を拡大しなければならなかったとしても、それは結果として寅次郎の意味を、より明確に観客に伝えることになった。満男は真面目な両親に敬意を持ちつつも、そこに息苦しさを感じ、自由人である伯父の寅次郎に憧れる。しかし、真面目な両親に育てられ、自身も本質的には真面目にしか生きられない満男は、寅次郎に憧れることはあっても、寅次郎にはけっしてなれない。なれないからこそ、満男は寅次郎という人間によけいに憧れるのであり、寅次郎の持つ価値をもっとも理解する人間に成長していく。

4.車寅次郎は深い人間関係を築かない

 寅次郎のこのような姿勢は恋愛に限らない。誰に対しても、信じられないほどすぐ親しくはなるが、親しくなってもけっしてそれ以上の人間関係を築かない。第39作『男はつらいよ 寅次郎物語』の中で、寅次郎は、亡くなった昔の友人の息子・秀吉を、別れた母親のところに連れて行くために旅をする。その間に寅次郎にすっかりなついた秀吉だが、秀吉を母親に託すと、寅次郎は秀吉たちの願いを断固として断って、すぐに東京へ戻ってしまう。追いかけてくる秀吉に対して寅次郎は、「おじさんはお前のあのろくでなしの親父の仲間なんだ。」「おじさんのことなんかとっとと忘れてあの母ちゃんと二人で幸せになるんだ。」と諭す。寅次郎は、男の子の今後を考え、自分はなるべく早く秀吉の目の前からも、さらには秀吉の記憶からも消えるべきだと考える。

 この作品には、印刷工場で働く義弟の諏訪博(前田吟)を賞賛し、自分のテキヤの商売などは「働く」ことにはならない、と自嘲的に語る場面もある。寅さんは惚れっぽくて、しかしそのつど女性にふられてばかりいる風来坊の単純な男だ...。私の中にそういう思い込みがあったとすれば、それは明らかに間違いだった。寅次郎は自分をよく理解しているからこそ、真面目に生きている人びとの領分に深くは入り込まないのである。

5.車寅次郎から連想する村上春樹の言葉

 人との関係を深くは結ぼうとせず、物事をあえて突き詰めようとしない寅次郎の姿勢から、私には小説家・村上春樹の次のような言葉が想起される。

いま世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。僕はこういうふうに文章で表現して生きている人間だけど、自己表現なんて簡単にできやしないですよ。それは砂漠で塩水飲むようなものなんです。飲めば飲むほど喉が渇くんです。にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押しつけているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差異を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。
(「村上春樹ロング・インタビュー『海辺のカフカ』を語る」『文学界』 2003年4月)

 私は大学教育にかかわっているので、ここで村上春樹が批判しているようなことを毎日のように学生たちに言ってしまっている。日々の授業で、論文指導で、就職活動への助言として。そこでは、物事を分析し、突き詰め、客観的に、体系的に語ることを求めている。それが「呪い」だというなら、村上春樹が語るそのような「呪い」は近代の宿命でもある。物事を分析し、解き明かし、明確にしなければいられないのが私たちの生きている時代なのである。それは人間関係においても、恋愛においてすら同じである。黙っていることはよくないとされる。なぜならそれは不明確な姿勢だから。だから勇気を出そう。「告白」することはよいことだ。ふられたっていいじゃないか。そこから次に歩き出せばいいんだ......。そう考えてみると、多くのフィクション作品の中で「告白する勇気」が称揚されていることがわかる。「告白する勇気」は、この時代を生きる私たちを駆り立てる現代の価値観であり、逃れられない制度でもある。

6.車寅次郎が教えてくれたこと

 たしかにそうなのかもしれない。しかし、どちらかに決めなければいけないという姿勢は、どこかコンピューターゲームの中の行動に似ている。進むか止まるか、友だちになるかならないか、戦うか逃げるか、YESかNOか......。それはONとOFF、1と0の二分法で成り立つデジタルの世界の構造そのものでもある。だとすれば、そうしたデジタル的思考の対極にいるのが車寅次郎という人間なのだ。

 寅次郎はあえて物事を突き詰めようとはしない。自分から身を引いて、答えを出そうとはしない。それは、物事を突き詰めたところに幸せが待っているとは限らないことをよく知っているからだ。そう考えると、私たちがなぜ『男はつらいよ』という映画にこれほど魅了されてしまうのかが理解できる。寅次郎は私たちに、「答えを出さないことの大切さ」を教えてくれている。それが近代という時代にあって、もはや生き残ることが難しい価値観であったとしても、そうした価値観が映画の中にだけ残されていたことを私たちは発見し、安堵する。寅さんが残してくれたメッセージは、そうした近代の価値と呪いを問い直そうとする視点でもあったのだ。

宇佐美 毅(うさみ たけし)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近現代文学/現代文化論

1958年東京生まれ。1980年東京学芸大学教育学部卒業。1990年東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。博士(文学、中央大学)。中央大学文学部専任講師・助教授を経て1998年より現職。

村上春樹をはじめとする現代文学を歴史的観点から考察し、明治期以降の日本の小説史に位置づける研究をしてきた。加えて、近年は文学に映画・演劇・テレビドラマ等を加えた総合的なフィクション研究を提唱しており、特にテレビドラマ研究を重視している。

主要著書に『小説表現としての近代』(おうふう)、『村上春樹と一九八〇年代』『村上春樹と一九九〇年代』『村上春樹と二十一世紀』(共編著、おうふう)、『テレビドラマを学問する』(中央大学出版部)などがある。

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