オピニオン

「全体」への夢想

田口 卓臣/中央大学文学部教授
専門分野 哲学、文学、科学思想史

ディドロとの出会い

 果たして、事物の全体を一気に認識することは、可能だろうか? もし可能だとすれば、それはどのようにしてだろうか? 私はある時から、この妄想すれすれの問いに取り憑かれてきた。

 この問いに対する反応は様々だろう。たとえば、こんなふうに考える人もいるかもしれない。初めから不可能だと分かっていることを問うてみても意味はない、と。こうした受け止めかたにも、十分な根拠が控えていると私は思う。

 ただ、一つの対象が示す複雑きわまりない顔に魅了されたことがある人なら、冒頭に掲げた夢のような問いかけを、一度は真剣に自問した経験もあるのではないだろうか。

 私がこの問いを持ちつづけるうえで決定的だったのは、18世紀フランスの哲学者、ドニ・ディドロ(1713-84)との出会いだった。

「実験科学」と「帰納主義」のマニフェスト

Denis Diderot, Pensees sur l'interpretation de la nature (1754)
フランス語の原書(初版)
(フランス国立図書館所蔵)

 高校の世界史の教科書で「百科全書派」の思想家として紹介されるドニ・ディドロ。そのディドロは、多くの自然科学系論文を発表した人物でもあった。よく引きあいに出されるのは、彼が41才の時に書いた代表作『自然の解明に関する断想』(1754年)である。科学史の分野では、科学革命のマニフェストとみなされてきた著作だ。

 では、ここでいう「科学革命」とは、どのような革命だったのだろうか。一言でいえば、「幾何学から実験科学への革命」ないし「演繹主義から帰納主義への革命」だった。

 17-18世紀ヨーロッパの学問は、「演繹」に基づいて自然の体系を説明しようとする幾何学から、実験と観察に基づいて自然の法則を「帰納」しようとする実験科学へと大きく転換を始めていた。

 よく知られているように、演繹とは、普遍的な前提から出発して、一つの結論を導き出そうとする方法である。たとえば、「A=B、B=C、ゆえに、A=C」といった三段論法は、その一例である。これに対して、帰納とは、一つ一つの事実を集めることで、そこから一般的な法則を導き出そうとするものである。この方法には、地道に実験をくりかえし、きちんとその結果を観察していけば、人はいつか現象の「全体」を認識できるはずだ、という期待が込められている。

 科学史の説明によれば、ディドロの『自然の解明に関する断想』は、後者の方法、つまり、実験と観察と帰納に基づく近代科学の方法を先取りした著作だった、ということになるわけである。

近代科学の生成期

 もちろん、上のような科学史の説明には、それ相応の歴史的な背景がある。この時代のヨーロッパでは、望遠鏡の発展によって地球から遠く離れた天体の観測が可能になるとともに、顕微鏡の普及によって極小の生物たちの営みも観察できるようになっていた。

 こうした技術の発展を通じて、それまでの演繹主義的な枠組みでは説明のつかない新発見が相次いでいたのである。たとえば、ディドロは『自然の解明に関する断想』で、アリマキの単為生殖、ポリプの挿し木再生、奇形嚢腫の発生、オーロラと地磁気の相関関係など、当時の思想界を驚かせた最新の科学的発見をめぐって、生き生きとした調子で報告している。

 この意味で、ディドロの著作が近代の実験科学の幕開けを告げる宣言とみなされたことも、理由のないことではないのである。

 しかし、である。

 実のところ、『自然の解明に関する断想』を読むことで気づかされるのは、「実験科学と帰納主義の擁護」などというスローガンには収まりきらない、多彩な学問上の方法が提示されているという事実なのだ。

 残念ながら、それらの方法を詳しく論じる余裕はない。ここではただ、一点に絞って紹介したい。

0.1%から「全体」を直観する

 私が何よりも紹介したいのは、例外的な事実や対象に注目するディドロの態度である。ディドロは、99.9%の精度で成立する現象を前にしても、ほとんど興味を示さなかった。むしろ、その99.9%の側からは「例外」や「逸脱」とみなされてしまう0.1%の側にこそ、並々ならぬ好奇心を寄せた。

 だからこそ彼は、動物にも植物にも分類できないポリプに驚き、オスとメスがそろわなくても子供を産めるアリマキに目を見張り、健常者とは異なる身体を持ちながら平常に生命活動を営む奇形に関心を向けたのである。

 帰納によって得られた「法則」を揺るぎない尺度とみなす人は、分類不能なもの、予測不能なもの、計量不能なものを、ノイズやバグとして処理してしまう。ところがディドロは、逆にノイズやバグと見えるものにこそ、既成のシステムを揺さぶる新しい発見の可能性を見いだそうとした。250年以上も前に書かれた彼の著作が何度読んでも新鮮に感じられるのは、このような独特の態度ゆえだろう。

 ところで、私はこうしたディドロの態度を、演繹(dedution)や帰納(induction)から区別して、仮説推理(abduction)と呼んでいる。ここでいう仮説推理とは、次のような推論の方法を指す。つまり、「現にこのような結果が出ている以上、それを手がかりに考えるなら、何らかのメカニズムが縮図として現われているのではないか?」と想定するような考え方である。

 思想史に詳しい人ならご存じだろうが、この用語自体は、アメリカの哲学者、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)が主唱したものである。ただし、私自身はこの概念を、例外的に極端な出来事に、既成の法則では捉え切れない「全体」の痕跡を見いだす方法、というかなり特殊な意味で用いている。

 この考え方に基づけば、現状では「法則」や「規範」とみなされている事柄も、決して自明なものではなくなってくる。それどころか、単なる「例外」や「逸脱」として切り捨てられてきた0.1%の事実が、当の法則の安定性を突き崩す裂け目となるかもしれないのだ。

探偵的、文学的

 勘のいい読者なら、これまで私が述べてきた内容が、いわゆる自然科学に限った話ではないことに気づいたことだろう。

 そう。たとえば、探偵の仕事は、現場に残されたわずかな痕跡から、事件の全体像を推理することである。この仕事に必要なのは、通常なら見過ごされがちな、いくつかの手がかりの間に連続性をみいだす想像力であり、一連の手がかりをもたらした因果関係の「全体」を見抜く直観の力であろう。そうした推理のプロセスで試されるのは、99.9%の常識の上にふんぞり返ることなく、0.1%の兆候を嗅ぎ分ける鋭い感性であるはずだ。

 また、私の話がある意味で文学的だと感じた読者もいることだろう。事実、フランスの近代小説はしばしば、99.9%の常識から著しく逸脱した主人公を設定することで、豊かな物語世界を創り出してきた。その物語世界を通じて私たちは、最初は共感を寄せにくかった特異な人物の生き様をたどりながら、彼/彼女がなぜ、そうせざるをえなかったのか、複雑な経緯の「全体」を理解することになるのだ。

 法則と例外、規範と逸脱、正常と異常といった分かりやすい区分をすり抜けていく0.1%の思考――。そのような思考こそ、私たちの凝り固まった常識を真に更新できるのだということを、私はディドロから学んだ。このディドロの独特な方法は、どんな分野の学問においても、もっと言えば、いかなる人間的な営みにおいても、多くの示唆を与えてくれるように思う。

 最後に、一つだけ付け加えておかなければならない。

 上のように絶えず常識に捕らわれない「新しさ」を追求することで、人は本当に「全体」の解明にたどり着けるのか、という疑問は、いつまでも残りつづけるだろう。ディドロ自身、『自然の解明に関する断想』でそのことを執拗に自問していた。

 近代の人間の知はおそらく、この解消不能のジレンマに囚われつづけるほかないのである。

田口 卓臣(たぐち・たくみ)/中央大学文学部教授
専門分野 哲学、文学、科学思想史

本稿の内容に関わる拙著『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』

哲学、科学、文学を横断的に捉える研究の出発点となった博士論文『ディドロ 限界の思考』

1973年、横浜生まれ。6才までポルトガルのリスボンで育つ。1996年東京大学文学部卒業。
2005年東京大学大学院人文社会系研究科博士後期課程満期退学。文学博士(東京大学)。
宇都宮大学専任講師・准教授を経て、2019年より現職。
主な研究課題は、18世紀ヨーロッパの思想家たちにおける哲学・文学・科学を、原理的・歴史的に考察すること。現在の関心は、人間の時間スケールをはるかに超える「地質学的時間」が、惑星としての地球で生きる人間の存在にどのような影響をもたらすのかを探究すること。
主著として、『ディドロ 限界の思考――小説に関する試論』(風間書房、2009年)、『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』(講談社、2016年)、『脱原発の哲学』(共著、人文書院、2016年)がある。