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トップ>オピニオン>採点競技の芸術的評価 ―新体操―

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浦谷 郁子

浦谷 郁子【略歴

採点競技の芸術的評価 ―新体操―

浦谷 郁子/中央大学法学部助教
専門分野 スポーツ哲学

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採点競技の芸術的評価の問題

 採点競技に芸術的評価があるスポーツは、新体操、フィギュアスケート、シンクロナイズドスイミング、体操競技女子の床があげられる。これらスポーツは、それぞれの芸術的評価について問題を抱えている。

 新体操の例を挙げると、芸術性に定評のあったアンナ・ベッソノワ選手は、2009年世界新体操選手権大会において完璧な演技をしたのにもかかわらず、ミスのあったエフゲニワ・カナエワ選手に破れた。そのとき会場ではブーイングが起こる騒ぎとなった。エフゲニワ・カナエワ選手は身体難度に定評があり、スポーツとしての技術が優れていた。一方アンナ・ベッソノワ選手は、芸術的評価のあるスポーツとしての芸術性が優れていたのである。この実例は、新体操が観客から見て技術と芸術の評価が平等でないことを物語っている。

新体操の歴史

 新体操の歴史は、18世紀末ヨーロッパで親しまれた「体操」Gymnastik(ギムナスティーク)と19世紀初頭誕生した「ドイツ体操」Turnen(ツルネン)の2つの系譜が大きく関与している[1]。これらは、現在の「スポーツ」の原点であり、裸体で身体技術を高める運動から誕生したといわれており、均整のとれた肉体を理想とする美意識のもとおこなわれていた。18世紀後半になると体操が普及し、手具体操(Modern Gymnastics)が用いられるようになった。これが、現在の新体操である[2]。新体操は、リズム体操と表現体操が調和した動きの美しさを追求したものであり、19世紀末から20世紀初めにかけてGymnastik(ギムナスティーク)として発展を遂げた[1]

 新体操がオリンピックの正式種目になったのは、1984年ロサンゼルス・オリンピック大会から個人種目のみ行われた。団体競技がオリンピック種目になったのは、1996年アトランタ・オリンピック大会からである。これらのことから新体操の歴史は、比較的新しいスポーツといえる。ちなみに、現在、日本の大学で新体操を実施しているのは12校だけと少ないのが現状である。(本年度、全日本学生新体操選手権大会に団体競技で出場した大学のみを対象とした。)

新体操の技術と芸術の評価の割合

 新体操は、技術と芸術を競うスポーツとして親しまれており、その特徴としてはスポーツでありながら芸術的側面を評価の対象としているところである

 2013-2016新体操採点規則の芸術の減点項目は実施の中に組み込まれている。実施の審判員は、実施的欠点(手具の落下、身体難度の不正確なかたち、手具の不正確な操作などを減点)と芸術的欠点(構成の統一、音楽と動き、身体の表現、空間の使用などを減点)を同時に見極めなければならない[3]

 芸術的欠点は細かく減点項目が定められており、個人の場合、最大3.5点の減点項目がある。必然的に技術的欠点は6.5点ほどの減点ができることになるため、新体操の技術と芸術の減点項目の割合は、明らかに技術的欠点が多くを占めていることになる

新体操の技術的評価が高まった理由

 スポーツは、それぞれの目的に応じて勝敗が決まる。サッカー、バレーボールなどの目的はゴールすることであり、陸上競技の目的はタイムや距離といった記録である。新体操の目的は、技術と実施(実施と芸術)の2つの目的が合わさって勝敗が決まる。新体操の技術は、ジャンプ(180°開脚した状態でジャンプするなど)、バランス(Y字バランスなど)、ローテーション(片足軸で回転すものなど)の身体難度と手具を巧みに操作する手具の難度などをさす。これらは、上記に示した競技スポーツのゴールや記録と似ていることから一般的に見ても得点化されている要素だとわかるのではないだろうか。

 新体操は、2000年シドニー・オリンピック大会以降、大幅に採点規則が変遷した。その背景には、4年に一度おこなわれる採点規則改正の規定に加え、選手間の得点差が僅差すぎることによって大幅な改定がなされた。その当時、最も僅差の得点が0.017であった。僅差すぎる点数を解消するために着目されたのが、得点化しやすい身体の難度要素である。身体の難度要素のかたちは、より柔軟性に富んだものに高い評価が与えられ、過度な柔軟性に対して美しいと評価され始めたのである。

過度な柔軟性に美はあるのか

 スポーツは美であるといわれながらも、スポーツは芸術ではないといわれることが大半である。この場合、新体操は芸術的評価がありながら芸術が存在しないといえるだろう。この混乱には、新体操の芸術の本質を問いきれていないことから起こっているのかもしれない。それゆえに、一般的に見ると美しいというよりも驚きや奇妙さを連想させる新体操の過度な柔軟性は、新体操界で美しいと評価されるようになったのではないだろうか。例えば、頭とお尻がついている状態(後屈)、200°を超える開脚などを連想してもらうとわかりやすいだろう。

 新体操の美しさは新体操独自の美しさであって、一般的な美しさとは遠ざかっている。私は新体操の芸術的評価の混乱のひとつに過剰な柔軟性を美しいとしているところにあると考えている[4]

 今年は2016年リオデジャネイロ・オリンピック大会が開催される。日本の新体操は、久しぶりに個人、団体ともに出場することが決まっている。(個人は3大会ぶりの出場となる。)オリンピックとなれば新体操もテレビ放映されるため、ぜひ、皆さんの目から見て新体操は美しく、芸術的であるのか判断していただきたい。また、2016年リオデジャネイロ・オリンピック大会後どのように新体操の採点規則が変遷するのかにも注目していただけると新たな「スポーツ(新体操)を見る」楽しさを見つけられるかもしれない。

参考文献

  1. ^稲垣正浩(1981)ヨーロッパ文化と体操.体育科教育,第29巻第1号,大修館,pp.40–41
  2. ^日本体操協会創立60周年記念事業委員会(1995)日本体操協会60年史.日本体操協会,東京.
  3. ^新体操委員会(2013)新体操採点規則2013-2016.日本体操協会,東京.
  4. ^浦谷郁子(2012)新体操の採点規則批判:柔軟性に関する内容を中心に.日本体育大学紀要,第41巻第2号,pp.117-123
浦谷 郁子(うらたに・いくこ)/中央大学法学部助教
専門分野 スポーツ哲学
福岡県出身。1985年生まれ。
2008年東京女子体育大学卒業。
2010年日本体育大学大学院博士前期課程修了。
2015年日本体育大学大学院博士後期課程中退。
2010-2013年日本体育大学体育原理(現在のスポーツ哲学)研究室助教。
2015年中央大学法学部助教、現在に至る。
競技成績(個人)は、インターハイ総合・種目別優勝、高校選抜総合・種目別優勝、インカレ総合3位・種目別準優勝、全日本選手権総合・種目別5位など。
16年間の競技生活の後、現在は後進の指導や審判活動に従事している。
日本体育大学在籍時、同大学新体操クラブを創設、初代コーチ。日本体操協会新体操女子第1種公認審判員。