兼武 道子【略歴】
兼武 道子/中央大学文学部教授
専門分野 イギリス詩、古典修辞学
気が向いたときにはインターネットでイギリスのBBCラジオを聴いたりする。BBC iPlayer Radioというウェブサイトは楽しい。BBCの個性豊かなラジオ・チャンネルが10以上も並んでいて、地上波とリアルタイムでそれらを聴くこともできるし、それぞれの番組が3週間程度は保存されているので、さかのぼって面白いものを探すこともできる。音楽を聴いたり、パーソナリティーのおしゃべりに耳を傾けたり。今のイギリスの様子を知ることもできるし、ニュース番組も日本とは違った角度から報道されるのでいろいろと考えたり思ったりすることも多い。イギリスの人たちとの話の接点にもなるし、もちろん、日本にいると薄れがちな英語の感覚を忘れないようにするという実用的な効果もある。
楽しい番組は数々あるが、その中でもイギリスらしいと思うものの1つに”Just a Minute”がある。ニコラス・パーソンズ(Nicholas Parsons)という人の司会で、4人の参加者が与えられたテーマに基づいてそれぞれ1分間、面白い話をするというものだ。参加者はコメディアン、文筆家、俳優・女優、政治家、ジャーナリストなど多岐に及ぶ。単純な設定だが、これがなかなか賑やかで盛り上がるし、可笑しい。何しろテーマが他愛もない。極端なのでは「バナナの5つの使い途」(“Five uses of the banana”)などというのが出てきたことがある。しかも話が面白いだけではダメで、与えられた1分の間に話者は「言いよどんだり、繰り返したり、話題から逸れたりせずに」(”without hesitation, repetition, or deviation”)話すのがルールだ。テーマの突飛さに虚を衝かれてたじろいだりしてはいけない(”hesitation”)。「そういう話題こそ得意です」という風を装って話し出す。しかし無事に軌道に乗った話が佳境に入ってきたときも危ない。例えば「私は何度も何度もそれを確かめましたが」(”I looked again and again”)などと言うと、パーソンズのベルがチリンと割って入る。「繰り返し」だ。すると話者は1分を待たずに失格となってしまい、次の話者に話題が引き継がれてゆく。もっとも、あまりにも話が面白いと、多少の違反は見逃してパーソンズがベルを鳴らさないことがある。すると他の参加者が「ちょっと待った(“just a minute”)、今、話が逸れた(“deviation”)じゃないか」と異議申し立てをしたりする。番組の題名”Just a Minute”は、1分の持ち時間のことでもあるし、この「ちょっと待った!」を指してもいる。言葉だけで勝負するこの番組は、1967年から続いていて、Radio 4の看板の1つだ。日本の「笑点」に少し似ているが、必ずしもプロではない話者が滑稽な話をよどみなく繰り出す様は可笑しくもあり、意外な話芸に感心させられもする。
ラジオで天気予報を聴いているのも、地味ではあるがなぜか面白い。イギリスは天気が変わりやすいので、毎日どの街も「晴れのち雨のち曇り」「曇りのち雨、時々日差し、西風強し」のような感じで、変化があると言ってよいのか、それとも単調と言えばよいのかよく分からない。いずれにしても言葉数が多いなあなどと思いながら聴いていると、イギリス各地に話が及ぶにつれて、いろいろな場所や人のことをふと思い出したり、思い当たることがあったり、まだ行っていない場所のことを思ったり。日本にいるのだから、明日のイギリスの天気を特に知りたいわけではないが、1日の終わりのちょっとした時間に、イギリスの天気予報をなんとなく聴いたりする。
天気予報をただそのためだけに聴くのが好きな人というのは案外数多くいるようだ。特に、「海上天気予報」(”Shipping Forecast”)という番組にはイギリスの船舶関係者の数をはるかに超えた、なんと数十万人もの愛聴者がいるという。2012年のロンドン・オリンピックの開会式にも使われたというから、その人気ぶりがうかがわれる。予報では、イギリス沿岸をはじめ、ノルウェー、デンマーク、ドイツ、フランス、スペイン、アイルランド、アイスランドあたりまでの海域に名前が付けられていて、それらが順番に、一定のリズムで歌うように言及されてゆく。海上天気予報はイギリス人にとってどこか懐かしいものであるらしく、数々のエッセイや旅行記の類も出版されているし、ロックの歌詞にも歌われていたり、現代アイルランドとイギリスを代表する詩人シェイマス・ヒーニー(Seamus Heaney)やキャロル・アン・ダフィー(Carol Ann Duffy)が詩を書いたりもしている。
キャロル・アン・ダフィーの「祈り」(“Prayer”)という詩作品に、この海上天気予報が登場する。4つの連(段落のようなもの)から成り立っているソネット(14行詩)だ。最初の3つの連に、4人の人々が登場する。両手で顔を覆って身じろぎもしなかった女性が、木の葉の音にふと顔を上げる。夜中に遠くを過ぎる列車の音に耳を傾ける男性は、遠い過去を思ってかすかな心の痛みを感じている。窓辺に立って街を見ている人は、誰かが練習しているたどたどしいピアノの音に心が和らぐ。夕暮れに子供の名前を呼ぶ人がいる。いずれの個人も日常的な小さな音をきっかけにして、人生についての洞察の瞬間を経験しているのだ。その様子が述べられた後に、締めくくりの2行がある。
Darkness outside. Inside, the radio’s prayer.
Rockall. Malin. Dogger. Finisterre.
外は暗闇。内ではラジオの祈りの声。
ロッコール。マリン。ドガー。フィニステール。
最後の4つの固有名詞は海上天気予報で使われている海域の名前であり、付近の岩礁や浅瀬などからとられている。(フィニステールは現在ではフィッツロイという名前に変更された。)4つの海域名は、上記の4人の人々の比喩になっているのだろう。詩人の声は4人の心を訪れて、言葉で結びつける。ラジオの声が、4つの離れた海域を結びつけるように。「信仰を失った」(“faithless”)時代に生きる「祈ることのできない」(“we cannot pray”)現代人ではあるが、そのような人々のあり方を結びつける祈り(“prayer”)の声が詩なのである。
人を島にたとえた例として有名なのが、17世紀の詩人ジョン・ダン(John Donne)の散文作品「瞑想」(“Devotions upon Emergent Occasions”)だ。「人は自足した孤島ではない。全ての人は陸地の一端である」(”No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent”)というくだりがある。これに対する現代における返答がダフィーの詩なのではないだろうか。ダンはキリスト教信仰によって結ばれた共同体を念頭に置いているが、「信仰を失った」ダフィーの時代は人が島のようになっているのかもしれない。ダンは、個人は皆人類の一部(“involved in mankind”)であり、人の死は自分の死でもあるから、人の弔いの鐘は自分の鐘でもあると考えよ(“for whom the bell tolls; it tolls for thee”)という。(ちなみに、アメリカの小説家ヘミングウェイ[Ernest Hemingway]の作品で、映画化もされた『誰がために鐘は鳴る』[For Whom the Bell Tolls]の題名はこの箇所からとられている。)ダンにとっては、個人の壁を超える普遍的な人間性を確認する契機が鐘の音なのである。現代においては、島のように点在する人々を結びつける可能性を持つのは詩人の声だとダフィーは考えているのだろう。
ダンとダフィーの作品はこれからも生き続ける。数十年後、もしかすると数百年後には、どのような音が人々を結びつける契機として文学作品に登場するのだろうか。