今から60年以上も前、自衛隊の創設に際して憲法の解釈はどこまで可能なのかについて激しく争われたことがあった。そのとき中心の議論となったのは、法の解釈は科学の営みか、実践の営みかという、今から見ると荒唐無稽に思えるような点であった。長く続けられたこの論争の着地点は、「法の解釈は、問題を解決するという目的があるので、意欲の作用であって、価値判断を避けることができない」というものであった。
価値判断である以上、解釈は価値の数だけ成り立つことになる。政府は政府の憲法解釈権があり、裁判所もまた同様に解釈する権限がある。ただ、日本国憲法の場合、憲法の最終的解釈権は裁判所にあるとされているので、国家機関の間で憲法解釈について争いがある場合、裁判所の判断が優先する。
しかし、国防や外交のような高度に政治性を帯びた問題については、それが一見明白に違憲であるといえない限り、裁判所は憲法判断をしないとする「統治行為論」が登場する。その結果、政治的な問題についての憲法解釈は国会や内閣のような政治部門に委ねられることになった。日本国憲法は、このような解釈を想定して定められているわけではない。
法の支配とは、自分に都合にあわせてルールを作ったり、変えたりすることを警戒する考え方であった。同じく、立憲主義は、国家権力を抑制して、人々の自由を守ることを課題としていた。権力を行使する者が都合よくルールの内容を変えることは、法の支配の観点からも、立憲主義の観点からも簡単には許されない行為である。いわば「お手盛り禁止」ルールこそが法の支配や立憲主義の中心にある考え方といえる。
憲法そのものをどう変えるかに関わる意思決定と憲法に基づいて物事を決める意思決定は区別しなければならない。憲法そのものに関わる意思決定を行い得るのは、国民以外にない。ゲームのルールそのものを決める者とルールに基づいて行われる意思決定を行う者が異なるのと同じである。両者を混同すると、ゲームは成り立たない。
60年前の法解釈論争以来、わが国では憲法解釈のあり方についての論争は下火になった。しかし、アメリカ合衆国では、ほとんどすべての憲法事件の中でこの問題をめぐり火花が散っている。憲法は国家権力を抑制するためにあるのだから、その解釈は文言から離れてはならないとする「条文主義(textualism)」や憲法解釈は憲法制定者の意思から離れてはならぬとする「原意主義(orignalism)」がある一方、憲法解釈に枠はなく、社会の必要性に応じて変わるのだとする「生ける憲法論(living constitutionalism)」が主張される。国際情勢が変わった以上、憲法9条の解釈は変わるとするのは、「生ける憲法論」の帰結である。
「生ける憲法論」は、アメリカでも批判にさらされている。アメリカにおける憲法解釈の議論は、人工中絶規制の合憲性やアファーマティブアクションの合憲性といった、イデオロギーの対立が背後にあるので、その評価には慎重でなければならないが、その時々の必要性によって憲法解釈を変えてもよいとする考え方には根強い抵抗がある。それは、憲法がその時々の権力者の意向によって都合良く解釈されることへの警戒感に基づいている。
憲法を取り巻く状況が変わったなら、憲法そのものを変えるのが立憲主義の常道である。国家のあり方や枠組みを変える意思決定は、国会にも内閣にも認められていない。憲法改正権者である国民以外に判断権者はいない。安保法制が憲法違反である理由は、憲法改正権が蹂躙されたというところにある。国際情勢が変わったなら、どのように変わったかを説明し、憲法改正に理解を求めるのが憲法に基づく政治の基本である。
では、なぜ政府与党は憲法改正を試みなかったのか。それは、憲法改正が難しいと判断したからに他ならない。安倍首相は、憲法改正手続の改正を試みて、失敗した。憲法改正が想像以上に難しいことを感じ取ったはずである。ならば、王道を捨て、迂回路を取るしかない。集団的自衛権行使に道を開くという目的のため、これまで政府がことあるごとに確認してきた解釈を一夜で葬り去ったのである。憲法改正の国民投票では負けるリスクがある。改正案が否決されたとき、自民党の党是そのものが否定される。ならば、批判を覚悟で迂回路を通ろう。これが政府与党の戦略であった。
私は、憲法の内容は、単に社会状況の変化や国際状況の変化によって変わることはないと考える。条文は変わらないのに憲法の内容が変わるとすると、それは国民の憲法意識が変わったからである。裁判所がそれまでの解釈を変えるとき、社会状況の変化による国民の意識の変化を理由とするのも同じである。仮に、今回の安保法制が合憲となるためには、憲法9条そのものを改正するか、数十年の時間を経て、多くの国民が集団的安全保障もまた憲法に違反しないとの意識を持つに至るかのいずれかでなければならない。だが、憲法9条に違反しないとの解釈で法制化に踏み切った以上、憲法9条の改正は実質的にも論理的にも無理がある。
集団的自衛権の問題を見たとき、多くの国民がおかしいと考え、説明になっていないと感じた理由もこの憲法意識に見いだすことができると思う。国民の多くは、自国を侵略から防衛するために自衛隊があり、そのためだけに自衛隊が憲法に違反していないとする政府解釈を信頼してきたのである。この憲法意識を覆すのは、解釈では不可能である。確立された解釈とそれに基づいて形成された憲法意識を変更できるのは、主権者国民以外にない。
憲法解釈を変えてはいけないといっているのではない。しかし、憲法というルールの性格から見たとき、解釈の変更は、国民の憲法意識に基づき、積み重ねられてきた判例や確立されてきた解釈によって正当化されなければならない。でなければ、法の支配も立憲主義も意味をなさなくなる。集団的安全保障をめぐる解釈変更に接して、ある学生から「都合良く解釈を変えられるのなら、憲法や法律を勉強する意味はあるのですか」と質問された。その意味で、今回の解釈変更は憲法に違反するだけでなく、法や法律学のあり方にも禍根を残した。
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橋本 基弘(はしもと・もとひろ)/中央大学法学部教授
専門分野 公法学
- 徳島県出身。1959年生まれ。1982年中央大学法学部法律学科卒業。
1989年同大学院法学研究科公法専攻博士後期課程単位取得。法学博士。
高知県立高知女子大学(現高知県立大学)助教授・教授を経て2004年4月より中央大学法学部教授。
2009年11月 中央大学法学部長に就任(2013年10月まで)
2009年11月 学校法人中央大学理事に就任(2013年10月まで)
2014年11月 中央大学副学長に就任(現在に至る)
現在の研究・活動分野は、憲法における個人と団体の位置付け、現代社会と情報の自由、条例制定権をめぐる諸問題など。
主な著作に、『近代憲法における団体と個人』(不磨書房・信山社)、『プチゼミ憲法1(人権)』(法学書院)、『よくわかる地方自治法』(共著、ミネルヴァ書房)、『憲法の基礎』(北樹出版)、『国家公務員法の解説』(共著、一橋出版)、『表現の自由 理論と解釈』(中央大学出版部)、『日本国憲法を学ぶ』(中央経済社)などがある。