岡本 正明 【略歴】
岡本 正明/中央大学法学部教授
専門分野 アメリカ文学
ふとした偶然が、人を気ままな思考へと誘う。
ミュンヘンを散策していた時のことである。街の南にあるドイツ博物館から、中心部へと向かって歩いていると、イーザル川にかかる橋のたもとにビスマルクの像が立っていた。3mほどの、簡素で粗い造りの石像である。私は何げなくこの像をながめたあと、そのまま先へと歩いてゆこうとした。その時である。ビスマルク像の足元のあたりに、あるものを発見した。
赤色のスプレーで書かれた×印。それも、かなり大きく、乱雑に暴力的にしるされていた。
ビスマルク像への、冒涜的な、抗議するような落書き。私は、しばし驚いて、落書きを注視した。が、その後、よくあるいたずら書きにすぎないと思い、その場をあとにした。
しかし、後日、なぜかこの「落書き」が脳裡をはなれず、気にかかることしきりであった。ビスマルクと言えば、プロイセンの首相、ドイツ統一の中心人物であり、英雄的存在のイメージがあり、その人物の像に、嘲笑うがごとく赤い×印がしるされているということが、どうしても気にかかったのである。先ほど書いたように、ただのよくある落書きで、特に意味はないのであろうが、なぜか、ビスマルクと×印のかかわりについて思いをめぐらさざるを得なかったのだ。ミュンヘンと言えば、バイエルン州、古くは、バイエルン王国の都である。すると、バイエルンとビスマルクのあいだには、何か深いかかわり、いや、あつれきのようなものがあるのではないか……。
いつの間にか、私はこのような、何の根拠もない、とりとめもない思考をめぐらせているのであった。そして、現在の出来事と過去の出来事を直接重ね合わせることが、必ずしも妥当ではないということがわかっていながら、バイエルンとビスマルクのかかわりについて言及した文献を探し歩いていた。
まずは、エルンスト・エンゲルベルク『ビスマルク─生粋のプロイセン人・帝国創建の父』のなかの一節。「バイエルンでは農民・小市民層の反統一国家・反プロイセンの動きがいわば下から生まれた。主としてカトリックの聖職者の指導するバイエルン愛国党は数年で大政党に成長した。」(野村美紀子訳)エンゲルベルクは、ビスマルクの国家統一、反カトリック的な政策(いわゆる「文化闘争」)に対するバイエルンの反発を、「強暴な反プロイセン感情」と呼んでいる。
ジョナサン・スタインバーグの伝記『ビスマルク』にも、同様の記述が散見される。ビスマルクが中心となってつくりあげた新帝国の樹立に際し、「バイエルンでは反対の声が強まった。1月11日[1871年]、議論が始まった。愛国党はプロイセンとその軍国主義を非難した。激しい議論が続き、1月21日、2票の僅差で必要な過半数を満たした動議が通過した。」(小原淳訳)かろうじて、バイエルンは新帝国を承認したということである。しかし、その後も、バイエルンの民衆の反プロイセン感情がおさまることはなかった。特に、ビスマルクの反カトリック的な政策に対する反発は強かったという。
このような反プロイセン感情、反ビスマルク的感情は、ビスマルク没後も伏流のように存在しつづけた。それが、一挙に顕在化するのは、1918年から19年にかけて起きた「バイエルン革命」である。黒川康は、『バイエルン・ドイツ・ヨーロッパ─ある地域主権の近・現代史(1918─1990)』のなかで次のように記している。「バイエルン民衆の声は大戦中から急進化していた。……『プロイセン憎悪』が広範な市民の心を捉えている。……この反プロイセン感情は、プロイセンによるドイツ統一の際に生じ、バイエルン政府は親プロイセンとなったが、バイエルン民衆に底流し続け世界大戦において『憎悪』として噴出した。」林健太郎も、バイエルン革命の一因として、「バイエルンの中に根強く存在していた反プロイセン感情」を挙げている。そして、「バイエルンに本来存在した反プロイセン感情が、ベルリンの政府によって始められたこの戦争に対する不満に容易に転化したのは不思議ではなかった」と述べている(『バイエルン革命史1918─19年』)。
また、ルートヴィヒ・モーレンツ編『バイエルン1919年─革命と反革命』の訳者・概説執筆者(守山晃・船戸満之)「あとがき」には、さらに射程の広い見解が記されている。バイエルンは、現代に至るまで、宗教的、言語的、風俗的にとりわけ独自性を示しており、バイエルン人が「その独自性をなかば誇っているらしいことが、なんとなくうかがわれ」、「プロイセンの影響から相対的に距離を置きたいという方向」性を示しているという。
以上が、ふとした偶然に誘われた、気ままな思索である。といっても、実のところ、×印は、よくある単なる落書きであり、私の思索も空想の域を出ないものかもしれない。あるいは、この雑文自体が、1つの落書きにすぎないのかもしれない。