子安 加余子 【略歴】
子安 加余子/中央大学経済学部准教授
専門分野 中国近現代文学、民俗学
ある日、ゼミの学生からこんな話を聞いた。電車に乗っていた二人のゼミ生はそれぞれLINE上で一時間ほど「会話」していた。さて電車を降りる段になってふと横を見れば、何と二人のゼミ生は隣り合って座っていたというから驚きだったという笑い話である。
電車の中で新聞を広げる乗客が消え、誰もが小さな端末の画面を一心に見ている。それが日常の光景になって久しい。情報インフラ社会ともいえる現代において、知りたい情報は非常に容易に入手できるし、それを均一的に拡散させることもお手のものとなった。赤の他人と「会話」することもあれば自他のプライバシーを共有することもある。
だがいくら情報を集め、交換し合っても、相手に対する想像力が無ければ、隣に座っていた友人の存在に気付くこともできないのだ。他者を想像することは、想像以上に難しいものなのだ。でも我々は日常生活でも、学問においても、対象と向き合うことなしに、ものの本質を知ることは難しい。ではどうしたら良いか。そんなとき、対象との関係性が先鋭に問われる分野(民俗学)で活躍した先人の仕事を参考にしてはどうだろうか。
1990年代以降、法制・教育・歴史・言語・文学などの諸学問において、最も研究の進んだ分野の一つに、文化研究が挙げられる。文化研究やポストコロニアル研究では、非西洋の近代における文化的アイデンティティ、例えば人種の問題、身体の問題(中国のてん足や、アフリカの割礼など)、ジェンダーの問題がクローズアップされた。
かつて西洋の近代的価値判断で非文明的だと非難されたものに、学問的視線が再び注がれたとき、今度は西洋近代の価値観を相対化しうるような、柔軟な視座が必要とされた。当事者の立場に拠って思考することの必要が説かれたことは、それを端的に示している。
一旦は西洋近代の価値観から野蛮視された人々や彼らの風俗を再考することは、同時に、現代社会が志向する「グローバル化」の圏外におしやられたものの声に耳を傾けようという思考の表れである。それこそまさに他者を理解する視点であり、他者にアプローチする上で欠かせない姿勢である。
このように、西洋近代の価値観を受容する一方で、西洋近代の眼差しを拒絶する(相対化する)部分を持ち合わせた人物が、20世紀初頭の中国にすでに存在した。近代中国を代表する知識人の一人、周作人である。
魯迅を知らない日本人はいないだろう。周作人は魯迅の実弟であり、日本との関係は兄魯迅より深いともいえる。少し前、周作人に宛てて、日本の文人や学者、芸術家などが送った大量の書簡(1910年代~60年代まで、350人以上1500通を超える)が発見され、日本のマスメディアが大きく取り上げたことは記憶に新しい(2015年3月25日)。
周作人は明治末の1906年から1911年のおよそ5年間、東京に留学した。その間、人類学を皮切りに、民族、宗教、神話、風俗、性学へと関心の対象を広げていった。日本での留学経験はそのまま、西洋近代の知のあり方に深く共鳴するプロセスだった。同時に、四畳半一間の質朴な生活空間やたたずまいを受け入れ、和服と下駄姿で縁日や寄席へと足を運んでは様々な日本文化に触れた。周作人が日本の民俗に直に触れながら、日本民俗学、具体的には柳田国男民俗学へ関心を寄せていくのは自然の流れだった。
周作人と柳田国男の邂逅は、日本留学中に柳田の代表作『遠野物語』を販売所まで出向いて購入したことを直接の契機とする(1910年)。周作人は柳田の主要な著作の購入を続け、生涯にわたって強い関心を寄せ続けた。こうして、日本で西洋の近代的学問方法(柳田民俗学を含む)を受容した周作人は帰国後、中国の民俗のあり方を究明しようと試みる。彼は中国民俗学運動の創始者の一人となる。
しかし、周作人が中国の民俗にアプローチするとき、大きな困難に直面した。一つは知識人と庶民の間に厳然と横たわる、精神的・物質的乖離だった。周作人は庶民を理念的に認識する(想像する)以外、アプローチの術を持たなかった。その過程で、文化的他者(自己)を語る(テクスト化する)に際して、避けがたい政治性(排除の論理)が付きまとうことへ警鐘を鳴らしていく。周作人において文化的他者を想像する営為は、西洋近代の受容とパラレルに、「西洋対アジア」、「先進対後進」、「文明対野蛮」という、近代にとって本質的ともいえる構造を問い直す営みでもあった。
周作人のもう一つの苦悩は、日本との関係にある。彼は日本占領下の北京に留まり、その管理下で「北京大学」文学院長、続いて文部大臣に相当する要職に就任した。盧溝橋事件の前夜、すでに日本研究の店をたたむと公言していた周作人であるから、北京残留は彼なりの選択であったはずだが、いわゆる「対日協力」の問題はその後の政治生命を脅かすものとなった。
周作人は日本文化と「決別」する一方で、日本の民俗を語ることは例外的に除外した。日本の民俗と向き合い続けた思考様式はいかに評価できるか、その回答は容易には得られない。だが、鶴見太郎氏の指摘にあるような、全体主義体制が成立するのを目の当たりにしながら、顕在的行為としての「抵抗」は示さなくても、より深い意識の中でそれに一体化しない工夫が、彼の民俗と向き合う姿勢の中で堅持されたと見なすことができるかもしれない(鶴見太郎『民俗学の熱き日々』中公新書2004)。
戦後、中国では長らく語ることさえタブーとされた周作人が、日本という「他者」と関わり、日本の民俗と向き合った意味を理解する歴史的な責任が、日本人にはある。戦後70年の節目に、周作人という知日家(他者)の苦悩を、今一度想像してみてはどうだろうか。