トップ>オピニオン>アクティブ・ラーニング × 行動規範 =? ― 中央教育審議会 高大接続に関する答申を読む ―
鈴木 章弘 【略歴】
― 中央教育審議会 高大接続に関する答申を読む ―
鈴木 章弘/中央大学杉並高等学校国語科教諭
専門分野 日本近代文学
昨年12月、文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会は、高大接続に関する答申(「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(案)」)を出しました。そこでは、現行の大学入試を抜本的に変え、さらに高校教育においても単なる「知識伝達型」の授業ではなく、「主体的・協働的な学習・指導方法であるアクティブ・ラーニングへの飛躍的充実」を図らねばならないとされています。
このアクティブ・ラーニングですが、簡潔に言うと、生徒の能動的な参加を授業プログラムに取り入れた学習・指導方法のことで、たとえばあるテーマについて問題を発見し、みんなで議論し、発表しあいながら、その答えを見出していくというものが、その代表例として挙げられます。本校でも様々な教科で、このアクティブ・ラーニングの試みがなされていますが、ここでは国語における物語分析の一例を紹介しながら、中教審の答申について考えていきたいと思います。
まず、このアクティブ・ラーニングですが、すべての授業で可能なわけではありませんし、有効なわけでもありません。限られた時間の中で、たとえば古典文法を覚えなくてはいけないというときには、ふさわしい学習方法とは言えないでしょう。
ですがその一方で、物語分析などはアクティブ・ラーニングにふさわしい課題であるということができます。
小説を読むとき、私たちは小説のすべてを覚えておこうなどとは思いません。読者は、小説のある部分だけをピックアップし、それを自分の中で無意識のうちにつなぎあわせます。この一連の過程が「読む」ということなのです。教室ではこの過程を、意識的、かつ論理的に行なっているというわけなのです。
さて、ここでアクティブ・ラーニングとの関係で重要となってくるのが、読むときに必然的に生まれる、ピックアップされなかった残余の部分です。この残余は、教室で教えられなかった別の読みの可能性でもあります。そしてこの残余こそが、生徒が自ら主体的に考えて、答えを見出していくという、アクティブ・ラーニングの領域となってくるのです。
実際の授業例に即して考えていきましょう。アクティブ・ラーニングは、自由に考えてごらんと言っただけでは、授業になりません。まずは従来型の「教える」授業がもととなってきます。たとえば、宮崎駿監督の映画版『風の谷のナウシカ』を授業で行なったときのことをご紹介しましょう。
『ナウシカ』は、冒頭のタイトルバックで、風の谷に伝わる「鳥の人」のタペストリーと、敵対するトルメキアの蛇の軍旗が描かれます。つまり、風の谷とトルメキアの対立としてこの映画を読みなさい、ということが明示されるわけです。まずはこの対立を丁寧に読み解いていくわけですが、最後に、しかしこの二項対立的な読みからとりこぼれてしまうものがある、それは一体なんだろう、という質問をします。ここからが、アクティブ・ラーニングのはじまりです。生徒は、風の谷対トルメキアという枠組みを明確に意識することで、かえって、この枠組みに組み込まれなかった残余に気付いていきます。たとえば王蟲の子をおとりに使ったペジテの存在です。ここからペジテの物語として、生徒は『ナウシカ』を読んでいくことになるのです。この意識化された残余こそが、アクティブ・ラーニングが生きてくる領域となるわけです。
ここから見えてくるのは、従来型の「教える授業」に対して、どのようにアクティブ・ラーニングを接続していくのか、という問題です。中教審答申も、従来の知識伝達型授業を全否定しているわけではありません。知識があった上でのアクティブ・ラーニングだと考えてはいるようなのですが、その知識を、高校在学中に複数回にわたって実施する、画一的な全国共通「高等学校基礎学力テスト」によって確保しようとしているところにまず問題があります。高校生活は三年間しかありません。このテストが導入されれば、その三年間は、この「基礎学力テスト」対策に費やされることになり、アクティブ・ラーニングへの展開は、羊頭狗肉に終わってしまうでしょう。従来型授業とアクティブ・ラーニング、この二つのスタイルの関係性を考えることが、今後、重要になってくるはずです。
しかし問題点はこれだけではありません。中教審答申の基本的な姿勢、そこにこそ大きな問題があるように感じます。
この答申は冒頭で「将来に向かって夢を描き、その実現に向けて努力している少年少女一人ひとりが、自信に溢れた、実り多い、幸福な人生を送れるようにすること」を目標として掲げています。この目標は実に真っ当で、「一人ひとり」の生徒が問いを見出し、自分の答えを模索していこうというアクティブ・ラーニングの趣旨に添ったものになっていますし、実現されれば、個人の尊重と幸福追求権について述べた『日本国憲法』第十三条の具現化ともなるはずです。
しかしその一方で、この文言の直後には、文脈から浮いた(しかも前後の文から一行ずつあけた形で)次のような一文が挿入されています。「彼らが、国家と社会の形成者として十分な素養と行動規範を持てるようにすること」。
個人と国家(あるいは社会)という問題系は近代においては逃れがたいもので、どちらも重要であるのはもちろんですが、大切なのは、その関係性をきちんと考えることです。
この答申では、国家、社会の系列に関しては、「基礎学力テスト」によって、みなが身につけるべき「共通性」を確保し、個人の系列にかかわる「多様性」に関しては、アクティブ・ラーニングによって伸ばしていこうと、とりあえずは考えているようです。
ですが答申を読み進めていくと、前者に重きが置かれていることに気付かされます。「豊かな人間性」は、「国家及び社会の責任ある一員として必要な教養と行動規範を身に付けること」と、何の根拠もなく定義され、高等学校教育においては「国家及び社会の責任ある一員として、自立して生きる力」を身に付けることが重要であるとし、そのことが何度も繰り返され、強調されます。
つまり、個人の主体性を基盤とするアクティブ・ラーニングを推奨しつつ、同時にそれとは異なるベクトルを持つ、国家、社会の「行動規範」への強い傾斜が、この答申には見て取れるのです。
ここでもう一度、『ナウシカ』の授業実践に戻ってみましょう。残余を意識化し、明確化するということは、うまくいけば、生徒一人ひとりの読みを引き出していくことになるでしょう。しかし悪くすれば、こちらが与えた枠取られた残余のなかで「主体的」な気分に浸りながら、予定調和、かつ「規範」的な読みに満足するといったことにもなりかねません。正直に言うと、私の授業でもそのような展開になってしまったことが何度もありました。
では、以上のことを踏まえつつ、今回の中教審答申を愚直に展開するとどういうことになるか、考えてみましょう。
明るい未来ではありません。生徒は「主体的」に動いているという錯覚に陥りつつ、結局は、与えられた「行動規範」から逃れられない大人になってしまうかもしれません。言い換えればそれは、「国家及び社会の責任ある一員」にしかなりえないということでもあります。考えすぎでしょうか。しかしこれこそがこの教育改革の帰結だとすれば、空恐ろしいものがあります。
今後、高等学校教育をどのように展開すべきか、授業をしながら引き続き考えていきたいと思います。