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しくみのユニバーサルなデザイン
小宮 靖毅/中央大学法学部教授
専門分野 商法・会社法・資本市場法
信号機が横向きに設置されているとき、右端にある色は何色か。私の住む街では、右端が赤のものをよく見かける。そして左端が赤い信号機は存在するか、確かめることは難しい。
左右の区別よりも上下の区別の方がつきやすいというから、積雪地帯に限らず、全国の公安委員会が信号機の縦設置を推進することには十分な理由がある。しかし、コストの問題をここで意識する人があらわれる。だから、理由を加える。
信号機を縦に設置し、一番上を赤と常に決めておくならば、赤と緑の区別がつきづらい方でも、まちがえることはない。点いているか否かは、色の区別よりもわかりやすい。ユニバーサルなデザインと言えるだろう。
それでも、一部の少数者のためにその他大多数が犠牲を払うのは納得できない、といった「コスト意識」を持つ人が現れる。団伊玖磨やビル・クリントンは赤緑色盲だったと聞くが、そうした人は彼ら二人をあくまでも「一部の少数者」と扱うことになる。
ユニバーサルデザインという考え方は、社会生活上の「困難」を抱える人々の割合が小さいとして、社会的解決をしないまま放置する態度をとらないという発想に立つ[ⅰ]。もし、信号機を縦置きにすることで事故が減るのであれば、それは色覚により社会生活上の困難を覚えない人にとっても利益がある。色覚で困難を抱える方は一説に300万人を算えると言われており、その方々を含め、公道を走る人みながより安全に運転できるしくみは、望ましい。
そこで、ユニバーサルな度合いをさらに高めてみよう。
機能的非識字者から運転免許証を交付される可能性を奪うべきだろうか。運転免許には、現在の日本では、90問に及ぶ文章題を課す学科(知識)試験に合格しなければならないが、“国家公安委員会が作成する交通の方法に関する教則”の理解を試すことが、絶対にこの形式の試験でなければならないとは言えない。口頭試験でも目的は達する。試験制度をユニバーサルにデザインするのは善いことだ。
機能的非識字者の割合を低下させることも、論理的には解決策の一つであり、試験制度を改めない(=対応しない)理由になりうる。つまり、これは教育の問題であり、運転免許制度の問題ではないという言い方である。だが、機能的非識字者とは学校で怠けていた人ではない。障害の一種である。免許があれば彼らが職を得る可能性は増し、より望ましいと言える。
次に予想されるのは「文字を用いる交通規制標識があるので、免許証を交付すべきではない」という断り方である。この小論は、実はここからが本題である。本当に、交通規制において文字が欠かせないのだろうか。
この先を読み進んでもらうために、これを近未来の話としよう。
「技術の進展により、目視に依存した標識に道路交通規則は頼らなくなった。車が、道路に設置された規制標識を音声案内で運転者に伝える。時間規制などについても織り込み済みの案内である。音声案内が煩わしいという向きには、自動運転をお勧めする。緊急時以外は、進入禁止の方向に曲がることも自動的に制約される。速度規制も文字通り実行される。スクールゾーンは文字通り機能し、駐車禁止も“正しく”守られる。なぜなら、それは各地の公安委員会が交通安全のために設けた規制であるから。守られない規則は存在しない。かつての日本では、規制を守らなくても公道を走ることができただなんて信じられない…。」
…このように、交通規制から文字情報が取り除かれてしまえば、機能的非識字者が公道を走ってはならないという制限の根拠は喪われる。赤緑色盲の方にとってもよいことである。これは「交通規制をユニバーサルにデザインする」という営みである。デザインとは、かたちあるものだけを相手にするのではない。
技術により守らざるを得ない規制が成立すると、それを守るか守らないかは問題にならない[ⅱ]。交通警察の方々は「決まりだから守る」や、「決まりは正しい」といった思考停止を強いられる業務から解放される。現場の彼らを含め、公道を走る人々は、当該区画や区間に“なぜ”そのような規制が設けられているかと考えるようになる。交通安全、事故防止、渋滞減少という目的に照らし、従う規制の内容、規制に至る手続きこそが重点であると、公道を走ろうとする人々が気づくのである。
公安委員会の定めた交通の教則、標識は合理的か。それが、個別具体的に、不断に、問われるようになったとき、赤と緑の困難を感じている人々や機能的非識字の困難を感じている人々が現在感じていることを、自分は普通だと思い込んでいる人々が「わがこと」と感じるようになる。
近未来の信号機の話として進めてきたが、信号機や交通規制の話にはとどまらない話をしているつもりである。
これまでも、いまこのときにおいても、そしていつまで経っても、しくみ(制度)を、より合理的なものに改めるしごとは大切である。信号機を改正し、交通規制を改正する。モノだけでなく、目に見えないしくみもまた改正する。とくに、文字で表現された、目に見えないしくみの典型が「法令」である。しかし、法令を「わがこと」と感じる人は多くないし、法令の改廃や制定がユニバーサルにデザインされているとは言えない。
立法過程をユニバーサルにデザインするならば、希望する人はみな、(1)法令の存在を知り、(2)法令の内容を理解し、(3)法令の合理性に関与できる。まさに民主的という形容がふさわしい。「ユニバーサルデザインされた立法」はもちろん途上であるが、立法過程の可視化は始められている[ⅲ][ⅳ]。「法令は社会を動かすソフトウェア」という捉え方の下で、国会をはじめとする議員の活動はもちろん、官僚の働き方も、利益団体の活動も、法律学の研究も、本質的に変わらざるを得なくなる。
そろそろこの小論を閉じよう。近未来の話としても、しなくてもかまわない。
立法過程がユニバーサルにデザインされたとしたら(たとえば、ソーシャルコーディングの方法をとるようになったとしたら)、法の学びは変わる。衆目の一致する内容をより巧く、誤解が少なくなるように法令化する(=コードを“書く”)しごとに向けた勉強がひとつ。そして、よりよい解決策を提案し、具体的に選択肢を成り立たせるしごとに向けた勉強がもうひとつあるだろう。情報そのものは端末等から簡単に取り出せるようになる以上、覚えているか否かは問われない。問われるのは、具体的な解決策とそこに至る方法である。
意見の対立点を明確にし、それぞれが前提とする条件を解消し、統合に至る過程を主宰できる人材。根拠を質し、不合理を改められる人材。具体的な問題を抽象化し、ふたたび具体的解決に戻る知的体力のある人材が望まれる。そうした過程の訓練を提供できるかどうかが、法に関わる教育機関の存在意義を決める。
まじめな学生たちは「答えを知るひとに教わりたい」とはおそらく思わない。彼らは「自分たちと共に考えるひとと学びたい」と思うだろう。
現状に依存し、自らを変革できない組織にも、学生が共に学びたいと思えるようなひとたちは集まるだろうか。新しいというだけで合理を受け容れようとしないひとの集まる組織に意味はない。大学がいま前提としている各種の条件づけ(大卒という肩書きを要求するしくみ)が弱まったとき、ひとびとが、法学部や、大学という組織に集うとは限らない。
かつてディズニーが、ジョン・ラセターを解雇した。それだけでなく、ふたたび呼び戻すまでに20年以上を要した。創立90年のアニメーション部門は危機に陥り、しかし、復活することができる。創立130年ほどの組織も、同じであろう。(了)
信号機の写真は館山自動車学校WEBより(中央大学広報室)