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鈴木 俊幸

鈴木 俊幸 【略歴

うた -調子に乗るということ-

鈴木 俊幸/中央大学文学部教授
専門分野 日本近世文学

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 江戸時代、百人一首は、諳んじているのが当たり前、また、そうあるように幼時から身近なところに配置されていた。歌人の画像を配した百人一首は、幼童の学びのための書籍である往来物中の一大ジャンルを成しており、おびただしい量のものが出版されていた。百人一首の知識が前提の『道化百人一首』という百人一首のパロディも幼童向けに各種出版されていた。カルタはもちろん、双六や占いのモチーフにもなっていた。百人一首は世の常識のうちにあったのである。

 学生は、江戸という時代の文化レベルの高さ、江戸時代人の勉強熱心に驚く。たしかに何百年も昔に編まれた古典が世の常識であったというのは、なかなかあなどれない時代ではある。そして高校時代に無理矢理暗記させられた苦い記憶と、それも今はうろ覚えであるという彼ら自身の現状とに照らせば、当然の反応でもあろう。つまり、これは、現代において百人一首が「お勉強」になってしまったからのことである。江戸時代において百人一首は「お勉強」としてたたき込まれるようなものではなく、日常自然に各自が身に付けていくようなものであった。百人一首的教養は、寺子屋で手ほどきされる読み書き算盤のような社会上必要な技能とは別種のものであった。自然な学びのうちに委ねられていたということは、むしろ、師匠任せにできない、むしろもっと切実なものであったからと考えるべきであろう。

 歌の徳をテーマにした説話は古代より数多い。31文字で男女がよりを戻したり、下人も失敗をゆるされたりするのである。『古今和歌集』仮名序は「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」という。この世界に生を受けたものは、すべて歌を詠めるというのである。つまり歌を読みあい、それを共感しあえるかどうかは、この世界の住人であるかどうかに関わるのである。この共感は、天地を動かし、鬼神をも感動させる。歌に共感した天地・鬼神はわれわれの世界のものとなる。

 家・村・町・国、江戸時代は各レベルにおいて平和永続への努力がなされていた。互いの分を尊重し、自らの分をはみ出さないことが基本であった。理を通すことより折り合うこと、角が立たないところでお互いに引くことが美徳であった。共感と同調をもって和となすような時代にあって、歌は、また歌のリズムを共有することは、この時代の平和の装置として、特段目にも立たぬところで大きく機能していたと思われる。7・5のリズムは社会の構成員たるもの、共感を共有できる者たちが持ち合わせている最大公約数であった。百人一首は、手頃な手本であり、拠るべき権威でありえた。俳諧も都々逸も、このリズムを共有している社会にあってこその流行であった。

 現代、古典は「お勉強」の世界に追いやられ、日常世界から遠ざかって久しい。にもかかわらず、われわれは、7・5の形式からは逃れられないままである。江戸時代そのままの感性と心性がまだ個々人の奥深いところに息づいている。

「あなた変わりはないですか/日ごと寒さがつのります」(阿久悠作詞「北の宿から」)、「お酒はぬるめの燗がいい/肴はあぶったイカでいい」(同「舟唄」)。われわれは7・5のリズムに弱い。畳みかけられる7・5に共感してしまう。寒さをこらえて男のセーターを編み続ける女性に気持ちがのめり込むし、無言のまましみじみぬる燗なんかを飲みたくなっちゃうのである。われわれはお調子者である。

 レギュラー(吉本興業所属)の「あるある探検隊」のネタは、日常から切り出したうがちを7・5の12音で整えたものである。たとえば、「ひとに鼻歌盗まれる」、また「噛んでたスルメを見せられる」。この7・5の形式は共感を強要する(これが史上もっとも短い短詞型文芸であるという指摘はかつてどこかでしたことがある)。ときどき放り込まれるあからさまな「ないない」によって引き起こされる違和感と笑いによって、7・5の調子に乗っていた自分に気付かされる(松本君と西川君、元気にしてるかなあ)。

 このことに、それこそ共感いただけるなら、江戸時代までに培われたものがわれわれの中にしっかりと生き残っていることに納得いただけるであろう。これは、自分の足許に江戸の平和に連なる大きな安心を覚えてほっとする一事かもしれない。

 しかし、軍歌も例外なく7・5調であった。戦時下のスローガンも同断。身に染みついて抜き差しがたいこの共感の装置、またそれを温存してきたものが、理性的判断を放棄させ、違和を許さぬかけ声となって、日本近代の歴史の中、この国を悲惨な結末に導くことに一役買ったことも忘れてはなるまい。われわれは思い出せないものを忘れられないでいるのである。

鈴木 俊幸(すずき・としゆき)/中央大学文学部教授
専門分野 日本近世文学
北海道出身、1956年生、1979年中央大学文学部卒業。1981年同大学大学院文学研究科博士前期課程修了。1985年博士後期課程単位修得退学。
国士舘短期大学専任講師、中央大学文学部専任講師・助教授を経て、1998年より現職。
現在は、日本文化の基底から時代を理解するために、近世日本の書籍文化全般を、主として書籍流通の面から研究している。2005年日本出版学会賞、2008年ゲスナー賞受賞。
著書に、『江戸の読書熱-自学する読者と書籍流通-(平凡社選書)』(2007年、平凡社)・『増補改訂 近世書籍研究文献目録』(同年、ぺりかん社)・『絵草紙屋 江戸の浮世絵ショップ』(2010年、平凡社)・『江戸の本づくし 黄表紙で読む江戸の出版事情』(2011年、平凡社)・『新版 蔦屋重三郎』(2012年、平凡社)・『書籍流通史料論 序説』(同年、勉誠出版)等がある。