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大橋 靖雄

大橋 靖雄【略歴

生物統計学と医療、そして健康社会

大橋 靖雄/中央大学理工学部教授
専門分野 生物統計学

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生物統計学とは?

 生物統計学とは、医療・健康科学に関わる応用統計学です。医学統計学・医療統計学あるいはバイオ統計学とも呼ばれますが、英語はいずれもBiostatisticsあるいはMedical Statisticsであり、限られた資源(対象者、時間やコスト)の中でいかに効率的にデータを収集し、解析し、そしていかに解釈するかの方法論を提供する学問分野です。あとで理由を述べますが、日本ではこの分野の教育システムは未発達でした。アメリカに留学した医師は、大きな病院には必ず生物統計家が雇われていて臨床研究や疫学研究のコンサルテーションや統計解析実務を手伝ってくれることに驚きます。大学病院でさえ日本で生物統計家のポストが作られたのは最近5-6年のことです。私は工学部を卒業し、品質管理の分野での応用統計学を専門としておりました。学部卒業以来40年間、本拠は本郷の東京大学を離れませんでした。地理的に動きはなくとも、仕事の場は工学から病院での臨床、疫学・予防へと大きく変わりました。大きな声では言えないのですが、オフィスワークも2001年に研究者主導の臨床研究・疫学研究を支援するNPO日本臨床研究支援ユニットと大学発ベンチャとして正規に東京大学から認知されたスタットコム社のある御茶ノ水でこなす時間が増えました。工学分野での応用統計学者をめざすうちに、医療・健康科学分野に転進し、この分野において必須である生物統計学の教育がほとんど日本には存在しないことに愕然として、基本的な教育システムを大学・大学院・大学外で作りつつ、生物統計家としてがん分野を中心とする臨床研究そして最近は疫学研究に取り組み、臨床研究ではデータマネジメント、CRC(臨床試験コーディネータ)、メディカルライターの育成を含む臨床試験の仕組み作りに貢献した、というのが私のこれまでの仕事のサマリーです。このことを評価いただき、2014年9月に朝日がん大賞を受賞することになりました。

臨床試験の不祥事はなぜ起きたか?

 2013年に発覚した複数の降圧剤臨床試験と、引き続くSTAP細胞研究の不祥事は、わが国の医学研究コミュニティに「品質保証」や「出版責任」の考え方が根付いていないことを浮き彫りにしました。臨床試験の品質保証とは、臨床試験実施のシステムを構築し、日々の品質管理の行動を通じて、得られるデータが信頼できることと参加される被験者の安全を確保することです。臨床試験に関わる生物統計家を試験統計家といいますが、その役割は統計解析だけではなく、臨床試験のデザインから実施、最後の出版まで、品質保証にも及ぶのです。降圧薬不祥事の背景として、中立の立場の試験統計家とデータセンターが存在しなかったこと、研究を主導するはずの責任医師の臨床研究の経験が浅く、品質保証の概念を理解していなかったこと、奨学寄附金という不透明な形で製薬会社からの資金援助がなされましたが、あまりに小額で、利益供与の形で社員が試験に関わらなければ試験実施が不可能であったことが挙げられます。

 実は1990年ころまでは、医師の統計解析や文献検索の支援を製薬会社が行うことはごく普通であり、市販薬の臨床試験のデータマネジメントや統計解析、論文執筆も実質的にはほとんど製薬会社で行われていました。これが日本の病院に統計家が存在しないでもやっていけた最大の理由です。1991年の改正独占禁止法の施行と、その具体的な業界版の製薬協公正競争規約が作成され、医療関係者に対して無償でサービスを提供することを禁止した不当景品類防止法が発効してサービス競争は沈静化したはずだったのですが、実態はまだまだ残っていたわけです。

健康・医療の課題と生物統計学

 国民皆保険という優れたシステムが徹底したおかげで日本人はどこでも低価格で医療サービスを甘受でき、その結果、日本人の平均寿命は世界最高レベルとなりました。この国民皆保険が維持できるか否かが、現在の最大の課題です。危機の原因は、高齢化はもちろんですが、無駄な治療をすればそれだけ医師・病院の収入が増える支払い制度、国民の医療への甘え、有効な予防法の評価・普及の欠如、食生活・運動を中心とする生活習慣の悪化です。たとえば、生活習慣病の代表格の糖尿病の発症を30%抑えれば日本のがん医療費をカバーできるという試算があります。糖尿病患者のがん発症リスクは健常人の1.2-1.3倍であり(放射線300-500mSv被曝リスクと同等)、糖尿病は失明の原因である網膜症、人工透析、脳卒中、さらには認知症の最大のリスク要因です。生活習慣を改めれば糖尿病が予防できるのは当然ですが、長続きする有効な画一的予防法は確立されていません。がんの薬物療法は、がん細胞の生物学的特性に応じた「分子標的薬」開発が中心になりましたが、これと同じように各人の生活習慣・好みに応じた予防法の開発と普及、その評価のPDCAサイクルが必要なのでしょう。懸案であったマイナンバー制度、先進国で存在しなかったのは恥ずかしいくらいのがん登録も動き出そうとしています。健康保険・介護保険データベース、病院データベース、薬歴データベース(お薬手帳)といった「ビッグデータ」をマイナンバーでつなぎ、予防と効率的医療につなげるのが維持可能な健康社会の実現につながると考えています。ここでも生物統計の力が必要です。

 私が所属する人間総合理工学科のミッションは維持可能な社会の実現ですが、これに貢献できる人材に生物統計や疫学のセンスを見につけていただくことが私自身のミッションということになります。中央大学には多くの統計専門家が在籍し、統計学の教育環境は優れていますので、統計を専門とする、専門とされようとする他学科・他学部の学生・教官の方々にも生物統計の分野をご理解いただければ幸いです。

大橋 靖雄(おおはし・やすお)/中央大学理工学部教授
専門分野 生物統計学
東京大学名誉教授、NPO日本臨床研究支援ユニット理事長、NPO日本メディカルライター協会理事長、計量生物学会会長、(社)日本臨床試験学会代表理事、(社)日本保健情報コンソシウム理事長、(株)スタットコム会長
1954年福島市生まれ。東大工学部卒業後、同助手から1984年に医学部へ移籍、中央医療情報部講師・助教授を経て1990年から保健学科疫学教室教授、1992年に日本の大学最初の生物統計学の講座を設立(疫学・生物統計学教室)。2014年に東京大学を退職し現職。研究者主導研究の支援を行うNPO日本臨床研究支援ユニットを2001年に設立。2011年日本計量生物学会学会賞、2014年朝日がん大賞受賞(医師以外では初めて)。