トップ>オピニオン>「アメリカン・ドリーム」から見るアメリカ/「夢」の行方
山城 雅江 【略歴】
山城 雅江/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 アメリカ文化 大衆文化 比較文化
「アメリカン・ドリーム」という、アメリカの外においても比較的知られているこの言葉は、アメリカ文化研究にとっては非常に重要なワードの一つです。現在では「神の与えた能力の許す限りの成功」から「願えば何でも叶う」まで、またその「対象物」(家、車、知名度など)も多種に及び、かなり振幅の大きな概念となっていますが、基本的には「機会が均等に与えられているアメリカでは、勤勉と努力によって誰でも成功する可能性がある」という信念を核とする考え方で、建国以前の植民地時代から「アメリカ」という社会・国を特徴づける精神と考えられてきました。特に大衆文化の中で絶え間なく再加工され、アメリカの人々の日常的心象に非常に興味深い影響力と補足力を持ってきた「アメリカン・ドリーム」ですが、アメリカにおけるこの言葉の使用に近年顕著になってきたのが、ネガティブな言葉との組み合わせです。新聞・雑誌記事や書籍、オンライン上で「American Dream」という言葉を検索してみると、それに付随するのは「終焉(end)」や「衰退(decline)」、「絶望的な(hopeless)」や疑問符(?)等々です。もちろん、これまでも「アメリカン・ドリーム」の「悪夢」や「虚構性」は芸術や学領域などを中心にしばしば指摘されてきましたが、大衆レベルにおけるこの前面化は少し異なる様相を呈しているように思います。この近年の変化には経済的不正義や民主主義の危機という認識の広がりが底流しているのです。
理念上「アメリカ」は「階級のない社会(classless society)」という「ユートピア」であり、またそれを自称してきた経緯があります。私自身、この表現を初めて聞いたときはアメリカの自己イメージと現実との大きな乖離に驚きましたが、これは「アメリカには格差や階層はない」ということではなく、「差は多少あるけれども、アメリカは旧世界とは違い、封建制がなく生まれによって階級が固定されてはいない」、「アメリカは一般大衆という一つの階級だけの社会」で「平等に開かれた社会では自己開拓・陶冶によって人は何にでもなれる」という意味のようです。先住民や黒人といったマイノリティに対する植民地主義的・反民主主義的歴史を少しでも考えれば、その「一つの階級」の閉鎖性がこのロジック自体を破綻させているのは明らかです。ただ一方で、その理念の達成を目指して、すなわち「アメリカ」を「未完のプロジェクト」として捉え、1930年代の「ニューディール」や60年代の公民権運動といった差別撤廃・民主主義的取組の延長線上に「一つの階級」にすべての人を包含した「階級なき社会」の達成に邁進する社会、という捉え方もあります。となるとそのアメリカ的「ユートピア」に必要不可欠なのは、やはり「アメリカン・ドリーム」とその社会的可動性を保証する民主的諸条件ということになります。自己研磨すれば、経済的地位や宗教、人種や民族、性別やセクシャリティ、生まれや家柄、その他の人工的な障壁に妨げられることなく教育や仕事を得て、より良い生活を送ることができる――歴史的には多様な形態をとってはいるものの、「アメリカン・ドリーム」の中核には、それが高度に民主主義的な社会の尺度かつ産物であり、世界でアメリカにおいてのみ見ることの可能な「夢」であるという自負が響いています。
「成功への障碍がない」を自らの独自性としてきたアメリカで、その「夢」の終焉が広く言語化し始めたのは、深まる貧富の格差と社会的流動性の消滅が最近目に見える形で明らかになってきたからです。過去40年にわたる超富裕層の収入の激増とそれ以外の層の収入の停滞、アメリカの全資産における超富裕層の富の占める割合の大幅増、大卒者の収入・雇用減、中産階級の縮小、再起のチャンスの消失、ワーキングプアの拡大、増加し続ける貧困率、世代間の階層移動率の低下、次世代の生活水準に対する世論調査の悲観的結果。そうした状況を具体的な数字やデータで明示する近年の多くの記事、論考、書籍等が検証し指摘している原因・背景はほぼ同じです。70年代以降の企業ロビイストの急増とアメリカ政府による一連の新自由主義政策(富裕層優遇の税制改正、社会保障ツールの解体・民営化、金融市場の規制緩和・自由化等)が富裕層への富の移転の流れを作り出したこと、また保守派によるメディア支配が進んで政府の政策や経済的グローバル化を後押しする言説が大衆に浸透したことで、その流れに拍車がかかったこと等です。持てる者の資金力によって政策が決定されてしまい、民主主義のメカニズムが抑え込まれ、政治的・経済的不正義が広がっている。富裕層はゲーテッド・コミュニティや独立した市を形成して自分たちだけの「ユートピア」を謳歌する一方で、大多数は絶望感と閉塞感に包まれ、ささやかな「夢」さえ見ることができない。2011年から始まった「ウォール街を占拠せよ」運動が浮き彫りにしようとしていたのは、民主主義社会であったはずのアメリカにあからさまに登場してきた世襲制であり、「新封建制」とでも呼べるものだったと言えます。
小説や映画のジャンルの一つに「ディストピア」があります。とりわけSFとの相性が良く、様々な主題(管理社会、思想統制、警察国家など)が扱われてきましたが、最近のディストピア映画に特徴的なのは「超格差社会」を前提としているという点です。『タイム』(2011) や『エリジウム』(2013)、リメイクされた『トータル・リコール』(2012)、また全米で大ヒットした『ハンガーゲーム』(2012)、『ハンガーゲーム2』(2013)といった映画は超富裕層と貧困層が隔絶する二極化した世界をその舞台としています。2014年にNHK『クローズアップ現代』で「“独立”する富裕層」と題された放送があり、税金が貧困層のために使われることに反発するアメリカの富裕層が自らの居住区を周囲と切り離して新たな自治体を作ろうとする動きを伝えて大きな反響を呼びました。多くの記事や論考が指摘しているように、異質なもののコミュニティからの排除や交流の遮断は、「公共」意識の消失と密接に連動しています。スーパーリッチの理想郷と大多数のスラム地区の表裏一体を「ディストピア」として描くSF映画群は、こうしたアメリカ社会の深まる分断を無意識に反映していると言えるのかもしれません。
社会的可動性が失われ、夢物語と化した「アメリカン・ドリーム」。所与と考えられてきたものの剥奪への憤りが、今後の政策にどのような影響力を持つのでしょうか。巨大企業のロビー活動によって過去40年間続いてきた自由市場主義政策の流れを逆流させ、「夢」の回復を図ることができるのでしょうか。一方で、留意しておきたいのは、そうした政策を推進するうえで非常に有効に作動してきた言説の一つが、外ならぬ「アメリカン・ドリーム」であるという点です。建国理念と呼ばれる他の概念と同様、「アメリカン・ドリーム」もまた基本的には経済保守派にとって極めて使い勝手の良い標語です。「アメリカン・ドリーム」には社会的な側面もありますが、基本概念からも分かるように歴史的には個人主義の意味合いが非常に強く、「貧困」を個人の問題に還元し、社会システム・構造への疑問を抑える働きをしてきました。またその対象物(土地、家、あるいは富や知名度、及び、それを象徴する消費物)への固着は、消費社会のマーケティング戦略とも相まって消費水準への関心を過度に高め、労働者の自己意識を「消費者」や「一般大衆」という階級意識の希薄なものに転換し、結果的に労働組合・運動の弱体化につながったという側面もあります。そういう意味では、来るべき「ドリーム」の再生は、単なる復元ではなく、その桎梏を超える内的変容を不可欠とするのではないかと思います。
アメリカについて見てきましたが、事態に経済・労働市場のグローバル化という重要な要素が含まれる以上、問題はアメリカ国内だけに留まるものではおそらくありません。超富裕層とは、どの地域の労働者とも共同体を形成することを考えていない多国籍企業や国際的上流階級であるとの指摘もあります。戦後アメリカ主導で作られてきた世界銀行やWTO、IMFといった国際機関やそのルールの背後には、今日のアメリカ国内における経済的不均衡をもたらしたものと同様の動きが存在するわけです。現在日本にもTPPという形で「自由貿易」や「市場開放」の波が押し寄せています。ところで、超格差社会を扱ったSFディストピア映画の古典『メトロポリス』(1927)の舞台は21世紀(2026年と限定するものもある)です。名作の描く世界と現在が奇妙にも限りなく近づいて見えるとき、アメリカの人々だけでなく、あらゆる人々を含めた「私たち」の「夢」に問われているもの、それはおそらく「夢」の動力としての想像力、とりわけ多様な「他者」と共生する共同体を、思考停止に陥ることなく、思い描き続ける力にあるのではないでしょうか。