トップ>オピニオン>日本人と外国語をめぐる思い違い? あれこれ
小野 潮 【略歴】
小野 潮/中央大学文学部教授
専門分野 フランス近代文学
「日本人は外国語ができない」という根強い神話がある。だが本当にそうなのか。フランスを例にとれば、フランス語をある程度話せ、辞書を使えば読める日本人の割合は、日本語をある程度話せ、辞書を使えば読めるフランス人の割合に比べ圧倒的に高い。対米、対英で同じような比較をおこなっても、日本人の英語能力のほうが英語話者の日本語能力よりも圧倒的に高いはずである。
ものの見方を変えて、母語以外の言語を操れる人間の割合を見るなら、日本人の外国語能力に疑問符がつくかもしれない。たとえばオランダ人、フィリピン人などの例が思い浮かぶ。だが、そうした国民は、人口規模が小さかったり、国家の生存が国民の国外労働に依存したり、旧植民地が旧宗主国の言語を話したりといったことで、母語以外の言語を話すことが、その国民の生存に不可欠であった場合が多い。これを大きな人口規模を持ち、大多数の国民が国外に出なくても生活できる条件にある日本人と比べるのにはあまり意味がない。
日本人が往々にしてもらす学習上の困難として、その言語に接する機会がないということがある。確かにこれは日本の外国語学習者にとって大きな困難のひとつであった。しかし今や状況は劇的に変化している。かつて大多数の日本人はその一生を日本で過ごし、他方訪日する外国人も多くはなかった。だが昨今では、さほどの高額所得者でなくても休みのたびに国外に出る日本人は数多く、また訪日外国人の数も少なくない。またメディアの発達により、外国語放送を24時間聞き続けることも可能であり、さらにスカイプなどを用いれば、いながらにして外国に居住する人間と、費用をかけずして双方向の対話を交わせる。要するに、現在では外国語に触れる機会がないというのは、本人のものぐさ、目端の利かなさを物語るものに過ぎなくなってしまっている。
現在、中学、高校の英語学習の形態は以前と大きく変わり、文法・講読中心から英語に馴染む、英語を大づかみに理解し、自らも英語で反応できるという能力を涵養することに比重を移している。また大学入試もこれに応じて変化を求められている。また大学の第二外国語教育においても、文法学習の比重は相変わらず高いが、その後にいきなり高度な文学書、哲学書を読むというような学習形態は姿を消しつつある。
これは必然の変化のように見えるが、それで失われるものも小さくないことが見過ごされていないか気になる。明治以後の日本の急速な発展のひとつの要因が、翻訳による西洋文化の非常に効率のよい摂取だったことは言うまでもない。翻訳に必要なのは、口頭コミュニケーションの能力のみではなく、長い文章をじっくり読み解く能力である。これを蔑ろにすれば、情報収集能力は結局のところ、しだいに浅薄になっていく。それでは少数の優秀な翻訳技術者を養成し続ければいいかと言えば、それだけでは、その少数の人間の翻訳の質をチェックすることは非常に困難であろう。みずからは翻訳を生業としなくても、翻訳の質を評定できる人間を一定数日本社会として確保しなければ、日本人全体としての外国語を通じての情報収集能力は低下していくだろう。
日本人の大多数の頭にしっかりと根を下ろしているのが「外国語=英語」という等式であろう。確かに英語は現在世界の最重要言語だが、英語さえやっておけばいいということではないはずだ。外国語学習の大きな目的が、その言語を用いての情報収集だとするなら、その回路は多いほどよい。日本人のすべてがひたすら英語学習に金と手間をかけるより、多様な外国語を学習する人間を増やしたほうが、日本人全体としての情報収集能力の向上には資するところが大きいはずだ。さらに言うなら、情報収集能力の練度を上げるには、二か国語以上の言語に通じた人間を一定数養成していくことが望ましい。
日本の外国語教育・学習に一番欠けている観点は、何を目的とする教育・学習なのかという点だろう。学習者からよく受ける質問に「どのくらい、何をやれば外国語ができるようになるか」というものがある。この質問には答えようがない。それで何をしたいのかが明瞭でないからだ。その点さえ明瞭であれば解答はずっとしやすくなる。学習者本人も、目的がわかれば、そこに至る過程が具体的にプログラムできるはずである。
目的が明瞭化されていないのは、社会的レベルでも同様だ。日本人社会にはどの言語をどの程度知っている人間がどのくらいいるのが望ましいのか、そしてそれが望ましいのは何のためなのかということが、社会全体として考えられておらず、流行任せにされているように思えてならない。