村岡 晋一 【略歴】
村岡 晋一/中央大学理工学部教授
専門分野 ドイツ近代・現代哲学(ドイツ観念論、ドイツ・ユダヤ思想)
ふたりの人間が仲良くやっていける条件とはなんだろうか。それは彼らが「同じもの」を共有していることである。価値観や人生観が同じなら、たとえ喧嘩しても仲直りできる。ふたりがスムーズに会話できるのは「同じ」日本語を語っているからである。それにたいして、ふたりのもつ差異は関係を阻害する。同じ日本語でも方言が強いと会話は妨げられる。この考えをとことんまで突き詰めたのが、近代のヒューマニズムである。
ヒューマニズムは人間すべてが共有する「人間性(ヒューマニティ)」をただ一つの原理にすれば、人間はたがいの「平等」に気づき、信仰・身分・民族の違いによってだれも差別されない「博愛主義の」社会が実現できると考える。すばらしい考えかただが、これが効力をもつには、「人間性」とはなにかという問いに具体的に答えなければならない。だれの答えが採用されるだろうか。現在たままた発言力をもっている支配的な人間集団のそれに決まっている。たとえば人間性とは「欲望に身をまかせず、生活を合理的に設計し、物質的に豊かな生活を目指すこと」だとしよう。そうなると、未開社会の人間や蓄財を卑しいこととみなす宗教の信者たちはまともな「人間」ではないということになり、彼らを仲間はずれにすべきだとか、徹底的に教育して真人間にしなければならないといったおせっかいで危険な思想にいきつく恐れがある。同一性思考を徹底化すると、いっさいの差異を認めない強い排外主義を秘めた「モノローグの思考」が帰結するのである。
対話的思考は同一性思考のこうした危険性を回避しようとする。対話(ダイアローグ)はまず「呼びかけと応答」で始まる。そして、私たちは呼びかけにたいして相手がスムーズに応答してくれたときに、彼に親しみを感じ、彼を「仲間」だと感じる。石はそもそも応答できないから私の「仲間」でないし、自分に閉じこもっている人間は同じ人間であっても、応答してくれないので「親しみ」を感じない。
だが他方、私が相手にほんとうに親しみを感じるためには、相手が私の応答への期待をつねに裏切りつづけてくれなければならない。昔、精巧なロボット犬が売り出されたことがある。ペット代わりになるロボットというわけである。では、このロボットが家族に愛されるペットになるにはどういう条件が必要か。もちろん、人間の呼びかけに適切に反応できなければならない。頭をなでれば尾を振る、呼べば走ってくるとか。しかし、こうした反応をいつも理想的に果たすだけでは、このロボットはすぐに飽きられてしまい、精巧にできた機械としか感じられなくなる。このロボットが親しみを与えるためには、「主人を手こずらせる」必要がある。主人が呼んでもそっぽを向くとか、不愉快そうにすねるとか。つまり、私が親しみを感じ、「仲間」と意識できるのは、私のコントロールの外部にとどまりつづけるもの、「絶対的な他者」だけである。人間関係を支えているのは同一性ではなく、「差異性」なのである。
対話の相手が私の予想を裏切るとすれば、私はまず相手が語るのを待ち、それを聞かなければならない。対話関係の基本は「待つこと」と「聞くこと」なのである。これは一見受動的な態度に見えるが、そうではない。私は相手があらかじめなにを言うかわからないのだから、そのつど当意即妙に応答できなければならない。つまりなにものにも拘束されることなく、新たに語りはじめなければならない。ここに「私」のほんとうの能動性と自由がある。「私」は「君」に語りかけられてはじめてほんとうの「私」になれるのである。
最近、日本も国際社会をリードしていく立場になったのだから、YESとNOをはっきり言えるようにならなければいけないという主張をよく耳にする。そのさい前提とされているのは、対話とはたがいの言い分を主張しあうことだという考えである。だがこの考えは、よくよく注意しないと、対話のすすめではなく、自分の言いたいことだけを言うモノローグのすすめでしかなくなる。これまでの日本人のように、相手と仲良くするために言いたいことも遠慮しろというのではない。むしろ「対話」とはまずもって「聞くこと」であり、そのつど新しい「私」と新しい対話場面を開くことのできる「聞くこと」の力を信じることなのである。