山﨑 久道 【略歴】
山﨑 久道/中央大学文学部教授
専門分野 図書館情報学
日本は、自動車やエレクトロニクスなどの分野ですぐれた製品を次々に開発し、世界の市場で売って、大きな経済的成功を収めてきました。モノづくりに関しては、日本は圧倒的な輸出超過を誇ってきたのです。しかし、ちょうど食糧やエネルギー資源についてそうであるように、情報、特に高度で先端的な情報の分野では、日本は大変な「輸入大国」なのです。今や、わが国では、科学技術分野の先端的な情報は、海外製のデータベースや電子ジャーナルを通じて購入される「輸入品」なのです。
たとえば、わが国病院での高度な医療は、米国等の医学・薬学情報データベースの利用なしには、成立しえません。新薬の開発についても同じです。さらに、米国の化学情報データベースは、日本中の化学、薬品、化粧品などの製造企業で、毎日のように使われています。最近では、自然科学分野を中心とする学術雑誌は、大半が海外の有力出版社の手によって電子化され、日本の大学その他の研究者は、それをインターネット経由で、有償で利用しています。その利用経費は、毎年高騰し、わが国大学の図書館予算や大学自体の研究経費を強く圧迫しています。
それならば、日本でこういう有力データベースを構築すれば良いではないか、と思われるかも知れません。しかし、米国の化学情報データベースがスタートしたのは、日本の明治時代ですし、医学情報データベースMEDLINEには、MeSHという精緻な用語統制システムが備わっています。このシステムによって、症状、治療法、薬効などから、すばやく該当情報が検索できるのです。こうしたことは、一朝一夕でできることではなく、永年専門家がデータベース構築の中で知恵を絞ってきた賜物なのです。日本が、コンピュータの能力や投入資金などの「形」のみを真似してみても、容易にできることではないのです。
そもそも、日本では、「情報を整理してあとで使う」という行為や仕事は、徹底的に冷遇されてきました。データベースというのは、そのための装置ですから、こうした環境下では、熱心に作られないのです。警察で捜査記録をデータベースに入力していなかったために、疑わしい人物が捜査線上に上っても情報が得られず、重大な結果を招いたこともありました。そもそも、記録を作ってそれを蓄積することなど、本来の仕事に比べて、よけいな瑣事だったのでありましょう。こうした風土では、データベースに対する目も冷ややかで、予算も付かず、担当者だけが苦闘するのみでした。
別の問題もあります。日本では、政府や財団から巨額の研究資金が、大学等の研究者に補助金などの形で与えられています。そうした資金をもとに研究者は研究を行い、その成果を論文にまとめます。問題はその後です。こうした研究者が、特に自然科学分野であれば、できるだけ海外の有力学術雑誌に投稿しようとします。なぜでしょうか。それは、こうした雑誌が広く読まれ、引用され、学会への影響力も大きい(インパクト・ファクターが大きい)ので、自分の論文がその雑誌に載ったということが研究者としての経歴に大きなプラスになるからです。事実、大学の教員採用などの時も、こうしたいわば“ブランド誌”への論文掲載は、人事評価の際のプラス要素となるといわれています。
したがって、日本国の資金で(もとは税金です!)行われた研究の成果が、外国の雑誌に載り、それが電子ジャーナル化されて、それをまた、日本人が買っているのです。もちろん、情報を整理するノウハウやデータベースの設計思想においては彼らの方に一日の長がありますから、その方が使い勝手の良いものができるのかも知れませんが・・・。
最近では、ネット上に様々な情報が溢れています。その中には、一過性の価値しかないものもあるでしょう。しかし、紙には印刷されずネット上のみで発表される文書・文献も増えてきています。紙の本なら、図書館などで保存していますが、ネット上の電子情報は、網羅的に保存することが行われていません。そうした電子情報は、「流れに浮かぶうたかた」のように、そのうち消えてしまいます。そうなったら、日本人が21世紀になってからどんな考えを持ち、いかなる生活をしていたのか、未来には、誰にも分からなくなってしまうかも知れません。こうした状況を防ぐには、デジタルアーカイブを大規模に展開することが必要ですが、わが国のこの面での動きは、著作権法や投入予算の制約もあって、極めて鈍いものがあります。
一方、企業などの組織においても、内部にある情報は、企業の価値を高めるものとして、インタンジブルズなどの名称で見直される機運にあります。米国では、これを会計的に資産として扱うことも検討されています。日本でも、ナレッジマネジメントとか情報共有の推進とか「暗黙知を形式知に」等のかけ声のもとに、これに沿った動きが出てきています。しかし、先に述べたように、「情報を整理することに価値を見いだす」という根本のところでコンセンサスがとれていないために、形だけのものになったり、一過性のブームで終わったりしています。情報界の巨人Googleが、「世界中の情報を整理する」と宣言して、日々活動しているのに比べて、何という違いでしょう!
日本でも、即刻、情報を整理して蓄積するための国家戦略を策定して、これを行政や企業経営の中で展開するとともに、必要に応じて教育の中でそういった思想を普及してゆかなければなりません。これは、単なるコンピュータやインターネットの整備といった情報技術の応用問題ではなく、日本の社会や産業の今後の発展を占う鍵になる根本問題です。
ただ、これまで日本では、情報は、主にワザや名人芸といった形で、人や物と一体化してその一部として存在してきました。図書館、文書館(アーカイブズ)、データベースなどの西欧型の情報ストックの形式は、そうした情報を人間やモノから引きはがして、独立して流通させる仕組みとして考えられたのです。今後の日本では、西欧型の情報ストック装置を充実させるともに、人間やモノに一体化した情報のありよう、つまり「文脈つき情報」を蓄積利用できる仕組みを早急に整備することが求められるでしょう。