楢崎 みどり 【略歴】
楢崎 みどり/中央大学法学部教授
専門分野 国際経済法、国際私法
今年3月から4月にかけて台湾では中華人民共和国とのサービス自由貿易協定(Cross-Strait Agreement on Trade in Service)に反対する大学生らが立法院の議場を占拠する事件が起こった。協定の批准を強行採決しようとする立法院の審議を阻止するために、台湾の大学生達が立法院に立てこもった。ひまわり運動(太陽花学運)と呼ばれるこの抗議運動は、中国巨大資本が台湾に流入することを恐れる多くの市民の支持を受けた。
韓国でも、アメリカ合衆国との自由貿易協定(KORUS FTA)に対して、激しい抗議運動が起こった。同協定は調印から批准まで4年以上かかっている。さらに、現在交渉中の中国との自由貿易協定(China Korea FTA)も、韓国農民からの抗議運動を受けている。
日本でも、TPP(環太平洋経済連携協定)の交渉をめぐり賛否両論巻き起こっている。なぜ自由貿易協定がこのような激しい抗議を引き起こすのだろうか。
貿易自由化は、もともとは関税の引き下げを求める交渉である。もっとも、日本については、関税引き下げの要求は高い関税障壁が残っている農業分野に集中している。他方、自動車や自動車部品なの関税が高い国もある。日本が農産物の輸入について関税を下げるのと相手国が自動車の輸入について関税を下げるのと、相手の要求に互いに承諾できれば、通商交渉が妥結し、自由貿易協定が結ばれる。
自由貿易協定はお互いに相手の要求を受け入れることで成立するので、こちらが望むものと相手が望むものとがつねに釣り合うわけではない。同じ名称の特権を約束しても、その価値は同じではない。たとえば、最恵国(Most Favored Nation)待遇を自由貿易国から受けても、すでに関税はゼロに近いので、現在の状況が維持されるだけである。他方、高い関税が残っている保護貿易国から最恵国待遇を約束されれば、その国が将来関税を下げた分だけ受ける利益が増えることになる。それだからといって自由貿易国と特権を約束し合うことに意味がなくなるわけではない。自由貿易国は、多くの国と協定を結び、覇権体制を形成する。そこに参画すれば、安定した同盟関係を享受できる。
しかし、いったん特権待遇を約束すると、相手は、その待遇より得られる利益を、既得権のように主張できる。自由貿易協定には紛争が生じた際の解決手続も用意されている。たとえば、国が国を訴える紛争解決手続では、協定の約束を守っていない国に是正勧告が出される。とはいえ、どのように是正するかは、その国の判断に委ねられている。また、違反により損害が生じていても、損害賠償を求められることはない。他方、企業対国家の紛争解決のための仲裁手続(ISDS: Investor State Dispute Settlement)では、国家による協定違反によって損害を受けた企業が、損害の賠償を求めて仲裁人に判断を求めることができる。
特権を約束し合い、義務で縛り合うことは、条約の本質である。それぞれの国は自らの国家主権に基づいて条約を結んでいるのだから、条約を結ぶこと自体が国家主権を侵害するわけではない。
しかし、自国政府に不信を感じている勢力にあっては、政府が外国政府との間で国家間関係を緊密化する代償として国内産業を差し出すような、バランスを失した条約を結ぶことを恐れる。この立場にあっては、国家主権とはその国の自立や自己決定権を意味し、自国の政府を、国家主権の体現者としてはふさわしくないと見なすことがある。ときには、こうした勢力が政府を打倒し、または政権交代を促すことによって、条約を破棄したり、条約交渉から脱退する可能性もある。
同じく、自国の立法などが協定違反かどうかを紛争解決手続において審査されることは、国家主権に基づき協定を結ぶ際にあらかじめ合意されているのであるから、外国から訴えられる可能性や仲裁人等に審査されること自体が、国家主権に反するわけではない。
しかし、外国や外国企業からの提訴を恐れるあまり、本来は国のために必要な制度や政策を作ることすら自国政府が抑制するようになると、政策立案を外国に左右されてしまう感が生じる。たとえば、環境汚染を防止する製品だけ税を減免する税制は、外国企業から見ると、外国勢を排除しようとする制度に見える。協定で約束された特権が守られないとして巨額の損害賠償が請求される。そうした可能性だけで、政府を委縮させ、社会的な立法を抑制する効果があろう。企業対国家の仲裁手続を認めている自由貿易協定が立法権を侵害するという主張は、必要な制度の策定を政府が自粛する可能性を恐れているともいえよう。
自由貿易協定は、もともとお互いに相手の望むものを差し出し、最大限均衡する範囲で約束を交わして成立する。約束した義務の例外があちこちに隠されているのも自由貿易協定の特徴だ。そのため、紛争解決手続では、協定違反かどうかの審査だけでも多くの立証が必要になる。
自由貿易協定に対する恐怖は、自国政府に対する信用により大きくもなり、小さくもなる。自由貿易協定の交渉を行う際には、政府は、国内でも、これまでの産業保護の政策や立法を変えるための取り組みを始めなければならない。自由貿易協定の交渉中に、国内の変革を圧出する推力や、変革に反対する勢力から噴き出すエネルギーを合わせて、どれほどの動態的なインパクトが国内で生じるか、算定可能だろうか。算定可能であれば、政府がもつ信用力の指標として使えるのではないかと考えている。