中村 亨 【略歴】
中村 亨/中央大学商学部教授
専門分野 英米文学、アメリカ小説、アメリカ文化
今年の二月に、復興支援の学生ボランティアの付き添いで気仙沼に行ってきた。その体験を機に震災と、自分の研究領域と重なる文学に関して考えたことを書き記しておきたい。
東日本大震災からこの春で三年になる。膨大な数の人が亡くなり、東北で被災した人々の多くは未だに苦闘のさなかにある。さらに原発事故のあと放射能汚染の危険は私たちにとって切実な問題となっている。だが被災地から離れて日常を過ごしていると、あの当時の記憶が急速に薄れつつあるのを感じる。この春東北に行って、震災が決して過ぎ去った過去ではなく現在の問題であるという印象を受けたが、それでも東京に戻った後は、ややもすると震災は再び遠くの、日常生活とはかけ離れた事柄のように感じられてくる。気の滅入るような現実を意識の片隅に追いやりたいという心理が自分自身の中にも、また社会全般においても働いているのかも知れない。
こうした震災の記憶の風化について考えるとき思い起こされるのは、かつて読んだ堀田善衛の短編小説「影の部分」である。敗戦から七年が経って発表されたこの小説では傷痍軍人である老人が、戦争を思い起こさせる存在を社会の周縁へ押しやろうとする社会の「重い圧力」を明らかにし、その圧力に抵抗する役割を担っている。都市の繁華街では戦争の痕跡はほとんど見当たらなくなり、「前の戦争はアイロンでのされたように、次第に追い詰められて」仕事をもぎとられた戦傷者達であふれかえる木賃宿へと「皺寄せられて」いる。「演説乞食」と自称する老人はその木賃宿からぼろぼろになった軍服を着て混雑する海水浴場に出向き、奇妙な演説を大勢の前で始める。
物珍しさから老人に目を向け最初は彼を嘲笑していた聴衆たちは、「諸君、諸君は生きたいのか、死にたいのか」と問いかけられ、生きたくないといささかでも思う者があるなら「その時は、そのいささかな連中のために、ハイッ原爆の雨ぇ、ハイッ水爆の雨ぇ・・・・・・。」と老人が声を張り上げるのを聞くと、皆ばつが悪い思いをさせられ顔をこわばらせる。さらに老人は「どうじゃ、諸君といえどもチクリと胸に来るものがあろう」と畳み掛けて、その鋭い痛み、無形の針にこそ倫理的価値があると説き、「この針を抜いてしまえば、諸君、ここな海のごとくに人間がうじゃうじゃと集まった粥の如きものとなる。こういう粥は、他人様のつけてくれる如何な恰好にもなり、消化もまたたやすいのである。諸君忘れるな、針もつもれば剣になる。」と訴える。
戦争と震災では事情は異なるし、この小説で描かれているような戦傷者と震災の被災者とを結び付けるつもりも全くない。ただ言いたいのは、震災を経験した後に物語をあらためて読み返してみると、思い出したくない過去、見たくない現実から目をそむけようとする人間の心理が時代を超えて共通するものであるように思えるということである。そして小説は、個々人の無関心な態度の集合体が、無視される対象を圧迫する巨大な力となることを示しつつ、その抑圧的な力に抵抗する。哲学者ジャック・デリダは言語表現の行為遂行的な側面に注目し、言葉が意味よりむしろ「力」を伝達することを強調しているが、集団的な無関心に対峙する短編「影の部分」は、執筆された時とは異なる時代に生きる読み手をも揺さぶり、訴えかける力を持っているように感じられる。
一方被災地での中大生のボランティアに同行して、言葉の持つ力とその波及効果を強く印象づけられた出来事があった。水産加工場で働く人の作業を手伝っていた学生たちは、責任者の方に話をうかがう機会を得た。従業員の方たちの明るく前向きな姿勢に強い印象を受けた学生の一人が、震災で被害を受けた後になぜそのような態度でいられるのかを質問した。その問いに対して責任者の方は、いつまでも下を向いているわけにはいかない、前に進まなければならないから、と返答をされた。
責任者の方から聞いた話に感銘を受けた学生たちは、別の水産加工場で働く他大学のボランティア学生たちと情報交換をするその日の夜のミーティングで、現地で働く人に質問を投げかけ、話に耳を傾けることの大切さを力説した。するとそれを聞いた他大学の学生たちの多くも、自分たちも質問をして話を聞くことを心掛けるようにしたい、と言い出した。さらには他大学の学生の一人が、学生たちにはボランティア期間の最終日に復興庁の小泉進次郎政務官の前で報告会を行う機会が与えられていることに言及し、小泉氏は社会に対して大きな発信力を持つ人だから、小泉氏の心に訴えるプレゼンテーションをすればそれが引いてはより広範な社会への情報発信になるはずだと発言すると、ミーティングに参加した学生たちは皆、そのようなプレゼンテーションの実現を目標にすると言って全員の士気は一気に高まった。
被災地の現状の一端を知った個人がそれを伝えようとする言葉は、震災への関心が薄れつつある今の社会の中では大海の一滴にすぎないように思われるかも知れない。だがそれでも、その一滴が周囲に波紋を生み、その波紋がさらに広がっていくことを信じたい。このように書いている私自身が学生と一緒に東北の被災地に行こうという気になったきっかけは、前年に同様のボランティアを経験した学生たちによる中大での写真展に立ち寄った際、何人かの体験談を耳にしたことだった。ボランティア活動は何かを人に与えるというよりも逆に相手から何かを与えられる機会だと実感したという言葉、そして写真展を見るために隣の明星大学からわざわざやって来て「マスメディアでは報道されない、被災地に行ってみないと分からない現実がある」と語った経験者の一言が、自分の背中を押すひとつの力になったことは間違いない。
気仙沼に行ってみて被災地の方々と学生たちの前向きな姿を目にした結果、傍観者でいるわけにはいかないと感じ、自分には何が出来るのかを自問し、試行錯誤する今日この頃である。
『ターミナル・ビギニング』(論創社)