バンコクの交通の状況は、最良の環境下にあってさえ非常に厳しい。そのため、ここ数カ月の政治デモで車が立ち往生した時に生じた不便は、人々にとっては想定できる種類のものであった。しかし、政府を立往生させるに至った裁判官の行動は別である。
憲法裁判所は3月、2月に行われた選挙を無効とする判決を下した。インラック・シナワット首相は、自らの与党の支持派である「赤シャツ隊」と反対派である「黄シャツ隊」との間の行き詰まりを打開するために選挙を行ったのだが、裁判所は投票所への立ち入りを妨害した反対派に報いるような行動をとったのである。裁判所は、投票を阻止された人々が改めて投票できるよう再投票日が設定されたことをもって、プロセス全体が違憲に当たると判断した。
判決の結果、タイは再選挙が実施されるまで「暫定政府」の下に置かれることになった。しかし「黄シャツ隊」は、改革を実行するまで選挙を実施すべきではないと主張する。また「赤シャツ隊」は、選挙の遅れによって与党が完全な政権を樹立することを妨げられていると訴える。4月中旬現在、選挙管理委員会はまだ日程を定めていない。
裁判所の政治介入はこれにとどまらなかった。人事問題に関する申し立てを受けて、首相を失職させ内閣を総辞職させるべきかどうかの検討にも入っていた。その人事問題とは、インラック首相が国家安全保障会議の事務局長タウィル・プリンスリー氏を解任したことである。
タイの最高行政裁判所は、この人事が違法であるとの判断を下し、同氏の復職を命じた。続いて、上院議員らのグループが憲法裁判所に対し、憲法違反によりインラック首相自身を失職させる判決を下すよう請願した。憲法第266条は、首相が自身の個人的利益のために人事に介入することを禁じている。
上院議員らの主張によれば、今回の人事はこうした事例に該当するもので、複数の人事が関係した縁故主義的人事である。首相はタウィル氏を解任することによって警察庁長官を事務局長に異動させ、自らの義兄に当たる警察庁副長官を長官に昇進させたのである。
そこで請願書は以下の点を裁判所に申し立てている。1)首相がタウィル氏を解任した目的は、(タウィル氏ではなく)自らの義兄が別の役職に異動できるようにすることだった。2)義兄のその役職への異動は、首相の個人的利益のために行われた。3)これはすべて、首相の失職を裁判所が命じる十分な理由となる。
インラック首相の支持者たちは、人事が首相の権限に属するのは当然であり、職務上の権利と義務の範疇だと述べている。彼らは、現政権の反対派が選挙のプロセスを通じてなし得なかったこと、すなわち政権奪取を、司法手続きを利用して行おうとしているに過ぎないと非難する。
こうした状況に対して米国合衆国最高裁判所が生み出したのが、いわゆる「政治問題」の法理である。これは、民主的プロセスを通じて解決した方がよい問題に司法が介入することを防ぐものである。もちろん、人種差別や、他の投票者を犠牲にして一部の投票者を利する選挙区割りなど、民主的プロセスそのものを脅かす問題には裁判所が介入する。しかし、タイのケースはそうではない。むしろ、政府の不手際に対して批判の声が上がっていることを理由に、選挙で選ばれた政府を退陣させようする行為に加担している。
もちろん、米国憲法はタイでの出来事には直接関係がない。しかし政治問題の法理は、タイ憲法裁判所が参考にできる有益な概念であった。にもかかわらずタイ憲法裁判所は請願を受理し、首相に対する異議申し立ての審理入りを全会一致で決定した。そして、15日以内に抗弁するよう首相に命令したのである。その結果がどうであれ、インラック首相が留任すべきか辞任すべきかを決定する権限を裁判所が引き受けたという事実は、長期的にみてタイの民主主義に資することとは思えない。
政治問題の法理を奉じる米国連邦最高裁も、この点に関しては誹りを免れない。悪名高いブッシュ対ゴア事件で、裁判所は連邦主義の義務を無視して大統領選挙に関する判断を下した。この選挙は接戦で、ジョージ・W・ブッシュ氏とアル・ゴア氏のどちらが米国大統領になるかはフロリダ州の結果にかかっていた。最初の開票ではブッシュ氏が僅差で勝利したが、投票に使用されたコンピューターカードの問題によって多くの票が無効とされたため、ゴア氏は手作業による再開票を要請した。これは州の選挙法では権利として認められていた。フロリダ州最高裁はゴア氏の要請を認める判断を下した。
米国法では、州法が連邦憲法に何らかの形で違反しない限り、州裁判所が州法の終審裁判所である。今回の件は憲法違反ではなかった。しかし連邦最高裁は、「すべて」の票の数え直しを認めれば既に票の集計が済んだ投票者の権利が憲法に反して侵害される、という一見もっともらしい議論を根拠に審理の開始を宣言したのである。ジョン・ポール・スティーブンス判事は反対意見の中で次のように書いている。「今年の大統領選挙において、誰が勝利したかを確実に知ることはできないかもしれないが、何が敗北したかは明白である。それは、法治主義の公正な守護者としての司法に対する国民の信頼だ。」
日本は逆の問題に悩んでいる。選挙のプロセスに関する憲法上の基準を最高裁判所が守らせようとしないという問題である。最高裁は2013年、選挙区間の一票の格差を国会が是正しなかったため、2012年の選挙が「違憲状態」で行われたとの判断を下した。2011年にも、2009年の選挙について同じ判断を下している。にもかかわらず、どちらの場合も裁判所は選挙結果を無効とすることは避けた。そのため、日本は違憲状態の選挙から生まれた政府の下に置かれたままとなり、その状態が続いているのである。
2012年における有権者が最も少ない選挙区と最も多い選挙区の一票の格差は2.43倍であり、裁判所はこの格差がいわゆる「一人一票」の平等の原則を損なうと認定した。ところが、裁判所は民主的プロセスの支援に乗り出そうとはしなかった。タイの論争と異なり、これは政府の行った政策に疑問を呈するという問題ではない。選挙で政府を選ぶという憲法上の権利を国民が奪われていないかどうかという根本的な問題をはらむものである。従って、裁判所が介入を拒否する理由はなかった。それどころか、権利擁護のための救済策を命令しなかったことは、憲法第81条が定める違憲立法審査の義務を怠ったことを意味する。
これ以降、いくつかの高等裁判所が2013年の参院選挙についての判断を下している。この選挙における一票の格差は、4.77倍とはるかに大きなものである。ほとんどの判決が「違憲状態」という同じ言葉を用いており、定数是正を怠ったとして国会を叱責する以上のことを一切避けている。
タイと日本とを見比べてみると、タイは司法の過剰な振る舞いに苦しめられ、日本は憲法の言葉を行動に移すことに過度に消極的な裁判所に悩まされているようだ。
どちらの例においても、犠牲となっているのは国民が自らのリーダーを平等な投票によって選ぶことができる制度、すなわち民主主義である。