トップ>オピニオン>落語という語り芸の魅力——想像力によって膨らむ噺(はなし)の世界
梅田 正隆 【略歴】
梅田 正隆/中央大学文学部教授
専門分野 フランス語、フランス文学
“落語”と一口に言っても、その世界は驚くほど広く多彩で、かつ奥が深い。今では殆んど演じられなくなった演目もあるが、それらを含めれば、古今の噺の数はゆうに千篇を超えると思われる。実際、東大落語会編の『増補落語事典』(平成6年版)には、「約1260篇の落語の梗概と解説」が収録されている。同じ内容の噺でも、複数の題名で呼ばれているものもあるので、実際の数は『事典』の項目数を下回るが、それでも700〜800篇は下らない数である。そのような広大な落語の世界は、まさにありとあらゆる要素が詰め込まれた話芸の小宇宙である。噺の中に登場する人物の身分や職業を一通り調べてみただけでも、その多様さが理解できる。上はお天子様や大名に始まって、武士、農民、職人、商人、医者、僧侶、隠居、小僧、女中、渡世人、物乞いに至るまで、文字通り士農工商すべての身分の老若男女が何らかの形で落語には登場する。そればかりではない。ものによっては、「仙人」「死神」「一つ目」、動物や虫までもが堂々と主役級の活躍をする噺も決して珍しくはないのである。落語の世界の多様さは、登場人物に限ったことではない。噺が展開する場所や季節も様々であるし、人々が演ずる物語も、喜劇あり、悲劇あり、笑いあり、涙ありである。いうなれば落語の世界は、士農工商、老若男女に加えて、春夏秋冬、喜怒哀楽、有象無象のすべてを含む、文字通り森羅万象の壮大な宇宙だといっても過言ではない。
噺の元になっている原話や出典を調べてみても、その由来は実に複雑で多様である。「落語の祖」と言われる安楽庵策伝作の『醒酔笑』にその原話が見られるものは相当数にのぼると思われるが、それ以外に江戸時代に書かれた各種の「小咄集」「笑話集」「民話」等に出典が求められるもの、中国・明代の笑話集『笑府』に淵源があるもの、果てはイタリアのオペレッタや、フランスの小説家モーパッサンの短編小説(『親殺し』)が元になっている落語まで存在するのである。
周知のように、落語はたった一人の演者による語り芸である。浄瑠璃や歌舞伎といった他の古典芸能に比べて、演じるスタイルは極端にシンプル。小道具は原則として、扇子と手拭のみ、演者の舞台も3尺四方の座布団の上という極めて限られた空間内であり、上半身の仕草と顔の表情だけによって演じられる芸である。このようにシンプルな道具立ての落語芸が、なぜかくも奥行きのある、しかも人情の機微をも穿った繊細な物語世界を創り出すかといえば、それはひとえに落語の基本があくまでも“語り”であり、最小限の仕草と共に演者によって語られる、「目に見えない」架空の世界が、観客の想像力に強く訴えかけるものだからである。
有名な落語に『時そば』という噺がある。閉じた扇子を「箸」に見立て、左手に持ったつもりの「どんぶり」から、そばをすする仕草は、実際に「箸」と「どんぶり」を見せられた時よりも、遥かにイメージの広がりを観客にもたらす。目の前の実物の「箸」と「どんぶり」は、われわれの視線をそこに引き付けることはあっても、想像力に働きかけることはなく、かえってその働きを阻害する邪魔物になるからである。さらには、演者の「おめェんとこじゃ、いいどんぶり使ってるじゃねえか!」「いい出汁(だし)使ってるな、鰹節(かつぶし)おごったろ!」などのセリフによって、実在しないどんぶりの中のそばと、鰹節の効いた汁のいい香りまでが、観客の脳裏に鮮やかに広がるのである。まさに、演者の話術と観客の想像力のコラボレーションが作り上げた見事な仮構の世界である。
一人の演者が、複数の人物を演じ分けるという語りのスタイルも、落語の大きな特徴である。二人の人物が会話している場面では、噺家はいわば「一人二役」を演じるわけだが、例えば『湯屋番』という落語などでは、道楽者の「若旦那」が、奉公先の湯屋の番台の上で、「芸者とイチャイチャする場面」を妄想するくだりがある。その時には、なんと登場人物である若旦那自身がセリフの掛け合いをして、「自分」と「芸者」との二役を演じるのである。噺家はまず「若旦那」と「銭湯の客」の二役を演ずる。その上で「若旦那」になり切っている噺家が、もう一つ別の次元で「若旦那」と「芸者」を演じるという具合である。不思議なことに、かように複雑な、いわば「二重の語り」の構造をもっていながら、演者の話術が優れてさえいれば、われわれ観客は少しも戸惑うことなく、瞬時に話の展開について行けるのである。このような見事な柔軟性をもった鑑賞能力も、すべてわれわれの想像力によって支えられているものなのである。
最後に、『元犬』という落語に触れておこう。全身が真っ白な犬は人間に近く、来世では人に生まれ変わるのだと聞かされていたある白犬が、「次の世でなく、この世で人間になりたい」と思い、蔵前の八幡様に願掛けをする。満願の日にめでたく人間になったのはいいが、犬の習性が抜けず、奉公先で珍騒動を引き起こすといった、ごく軽めの噺である。榎本滋民著『落語ことば辞典』によれば、犬の転生の事実については、れっきとした実話が残っているそうである。あるお寺の和尚にとても懐いていた白犬が、死んだのち門番の女房の腹に宿って人間に転生し、大変頭のよい小僧に育ったという話である。ところでソフトバンクのCMだが、ホワイト家のお父さんを「白犬」に設定したのは、このような興味深い故事や落語を踏まえた上でのことなのだろうか・・・?