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トップ>オピニオン>大学の社会貢献〜学生のボランティア活動に接して考えたこと〜

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山科 満

山科 満 【略歴

大学の社会貢献
〜学生のボランティア活動に接して考えたこと〜

山科 満/中央大学文学部教授
専門分野 臨床心理学

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1.第三の役割としての社会貢献

 「大学の社会貢献」。この言葉を目にして「何を今さら」という感を覚える大学教職員は少なくないであろう。教育も研究も最終的にその成果は社会に還元されるものであり、従来から大学は正にこの機能を担うことで社会に貢献をしてきたといえる。しかし、2005年1月の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」では、社会における大学の役割について、教育及び研究に並ぶ「第三の使命」としての社会貢献が明示された。社会貢献それ自体が第三の役割と位置づけられたということは、大学自らが従来よりも能動的に社会と関わり、社会の形成の一端を担う役割を果たすことを強く求められる時代になったことを意味している。

 さらに、2012年6月に発表された文部科学省「大学改革実行プラン」の中では、大学のCenter of Community(COC)機能の強化が打ち出された。その背景として、地域と教員個々人のつながりはあっても大学が組織として地域との連携に臨んでいないことが問題点として指摘されている。今日の大学は、組織として地域貢献に対する意識をもって地域の課題解決に取り組むことが求められているのである。

 このような外部からの要請が強まっているにもかかわらず、筆者自身がつい最近まで不覚にも社会貢献についてはきわめて従来的な発想しか持たない教員であった。以下本稿では東日本大震災の被災地支援を例に、反省を込めて筆者の活動を振り返り、大学における社会貢献のあり方について述べさせていただくこととする。

2.被災地との関わり

 去る2月8日、筆者は大雪の東京を辛うじて脱出し、新幹線で岩手に向かった。3泊4日の日程で久慈市・野田村を訪れるためである。数えると彼の地の訪問は2011年3月から始まりおおよそ30回目になる。発災直後は旧知の精神科医が院長を務める精神病院を手伝うことが目的であった。しかし現地に到着して早々に、病院長の意向で甚大な被害を被った野田村の被災地域での活動を優先することとなり、破壊の爪痕も生々しい村内を巡回することが私の仕事となった[1]

 筆者は避難所では、家族を亡くされた方や精神障害ゆえに手厚い心理的な支援が必要と目される方を中心に面談を試みた。しかし、よそ者に最初から心を開く方は少なかった。もとよりそれは東北人である筆者には予想されたことであった。また、精神科医が本当に必要とされるのは初期の混乱が一段落してからであろうと考えられた。そこでまずは内科医の役割を担い、全員の血圧測定を繰り返して多くの人に顔を覚えてもらうことを心がけていた。

3.被災者の語りは「治療」の対象ではない

 避難所巡りの最初に出会い現在までお付き合いが続いている初老の女性は、半年過ぎてから、迫ってくる津波から間一髪で崖の上に逃れたときの情景を微細に繰り返し語るようになった。また別な高齢のご夫婦は、2年目の冬になってようやく津波の体験を語るようになり、黒い波が押し寄せて水に呑み込まれそうになる夢で目が覚めることがたびたびある、と述べた。

 この突然心に浮かぶ詳細な視覚記憶はフラッシュバックと呼ばれる現象であり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状である。私に限らず被災地に向かう精神科医は、災害時のPTSDについては事前に認識し、まさにこういったフラッシュバック症状の治療こそ自分たちの役割である、という意識を持っていた。しかし私が出会った被災者に限っていえば、PTSDと認められる人は少なからずいたのだが、3年間で治療に繋がったのはわずか2、3名に過ぎなかった。被災された方の多くは、自分のつらい記憶の話を聴いて欲しいという願いがある一方で、それを治療の対象にして欲しくはない、という思いを共通して抱いているようであった。

4.筆者に求められたこと

 お会いした被災者は、みな最初はこちらを丁重に迎えてくれた。しかし、丸2年が過ぎたある時、前記の初老女性が当時の状況を穏やかに思い出し話す中で、「今だから言うけど・・・」とさり気なく切り出した。「私はあの頃、先生が来るのを予告している日には会わないようにみんなを誘って避難所から逃げていたのよ。それなのに先生は毎回約束を守ってやって来る・・・」。だから筆者と向き合おうと思うようになったのだという。彼の地には外部から多くの人が支援に訪れていたが、「外から来てすぐいなくなる人に、気持ちを喋れるわけない。だから相手が喜びそうなことを言って、お帰りいただく」ようにしていた、というのである。笑い話として語られた話だが、筆者は自分の思い上がりを指摘されている気がして内心は冷や汗をかいていた。

 仮設住宅にまつわる苦労も、当初は語られることは無かった。それが1年経ち2年立ちする中で、徐々に狭さと防音の不備についての話題が出るようになった。そして、そういった会話の最後に、少なからぬ方が「また来てほしい」ということをさらりと口にするようになっている。そして異口同音に、「私たちのことを忘れないで欲しい」と付け加える。忘れないでいること、関心を持っていること、それを目に見える形で示すこと、そのために通い続け話を聞き続けることを、被災者の方々は筆者に求めているようであった。

5.専門家によらない「こころのケア」〜ボランティア学生たちの活動から〜

 筆者は単独行のボランティアであった。医師としては病院組織に属さず比較的フリーな立場にある自分だからこそできる役割として、狭い地域ではあるが特定の支援対象に継続的な関わりを持つことを意識した。(もうひとつ、病院長や自治体の保健師など専門職を対象として支援活動を行ったが、ここでは触れない。)大学教員としては学生を被災地に引率することも考えられるところであった。しかし、学生のために被災地を見せることは思いついても、彼らを活用してこころのケア活動を行うことなど、筆者には思いもよらないことであった。専門知識と技能がなければこころのケア活動は難しいであろうと考えたからであった。

 その考えを打ち砕いたのが、ひとつは被災者の方々の言葉であるが、もうひとつは中央大学の学生たちによる被災地でのボランティア活動の報告であった。東日本大震災における中央大学学生のボランティア活動は、当初は卒業生からの要請と支援に基づくものや、学生部や教職事務室といった事務組織のセクションによる募集が主であった。それが、気仙沼市や宮古市においては、学生たちは学生部の支援を受けつつも自律的に子供たちの学習支援を行うようになっていった。あるいは、新たに立ち上がった団体が「孤独死を出さない」を合い言葉に相馬市の仮設住宅を巡回している例もある。2013年夏時点で、学生部内のボランティアステーションでは、主として5団体の活動を把握し、物的・心的両面でのバックアップを行っている[2]

 現在それらの活動の中心メンバーは1、2年生、つまり震災後に大学に入学してきた学生に移行しつつある。震災直後に被災地に赴いた学生の多くは卒業し、あるいは就職活動のために、現地に赴くことは難しくなっているのだが、活動は一過性に終わること無く、次世代に受け継がれて続けられる体制が整いつつある。むろん、被災地での活動は時間の経過とともに目指すものが異なってくるものであり、学生の活動も現在曲がり角を迎える段階であると聞く。しかし何はともあれ継続性が保たれているのは喜ばしいことである。

 こころのケアのための基本が「忘れていないことを目に見える形で示し続けること」であるならば、上記学生の活動は、十分にこころのケアになっているといえよう。被災者の不安は、時間の経過とともに社会の関心が徐々に薄れつつある現実に起因している。学生たちの活動は、そのような不安にしっかりと応えるものになっている。私はこのような学生のポテンシャルを明らかに過小評価し、また被災者のニーズをも見誤っていたのである。

6.大学という組織体ならではの社会貢献のあり方

 大学には、ごく一部の例外を除けば小規模の場合でも千人単位の人が集う。とりわけ中央大学ともなれば総合大学として多様な年齢構成と背景を有する3万人もの教職員・学生を擁しているのである。さらにそこには長い歴史と伝統の中でさまざまな知的・人的・物的な資産が蓄積されている。加えて、大学の主たる構成員である学生は毎年入れ替わる。入れ替わりつつも、スポーツをはじめさまざまな学生の活動が継続して行われている。こういったことは、他とは異なる大学という組織体の大きな特徴である。

 この特徴が社会貢献の領域において端的に具現化されたもののひとつが、上記学生による被災地での継続的なボランティア活動である。ボランティアである以上、学生の自発的な活動が基本であり、教職員が全てお膳立てしたり、まして上から活動を促すものであってはならない。しかし、最初は卒業生や事務組織の呼びかけに応じて始まった被災地支援がやがて学生の自発的な活動に発展したように、経験ある教職員が時には呼び水となって学生の潜在的な活力を引き出す工夫も必要であろう。そして、意志と能力を持った学生の活動を守りながら発展させていくことが、教職員それぞれの責務ではあるまいか。

 またこのような学生の活動を、講義やゼミなどの正課教育に結びつけることも可能なのだ。社会学的な視点から、あるいは環境工学の視点から教育・研究上のテーマを設定し、被災地に学生を送りだし学びの機会を提供し、結果的に被災者との交流(すなわち広義のこころのケア)に繋げている教員が、中央大学にはすでに複数存在する[3]。学生の思いと教職員の知恵が地域のニーズとかみ合ったとき、大学の社会貢献活動は教育・研究活動とも有機的に結びつき、より実効性をもつことが期待できる。

7.終わりに

 ボランティア学生を地域社会に送り出すことについては課題も多い。今後さまざまな活動要請が地域社会から大学に寄せられることになるであろうが、その教育的な意義については個別に慎重に見定める必要がある。また現場に出て行く学生の安全確保のためには、大学としても危機管理体制の構築を含む多様なバックアップ体制の整備が不可欠である。学生のボランティア活動に大学の会計から活動資金を拠出するとなれば、授業料の担い手である父母のご理解を広く得ることも望ましい。何より、教職員全体が学生の活動を支援する空気になれなければ、学生の活動は発展しないであろう。

 そのような問題点を抱えつつも、筆者には、学生が主体的に行うボランティア活動こそ大学という組織体に最も相応しい社会貢献のあり方のように思われる。関係者の理解が得られることを切に願う。

  1. ^ 山科満 「ボランティア医が見た岩手県北沿岸地域における精神保健の絆—野田村での活動を通して—」 精神医療64号、122−131、2011.
  2. ^ HAKUMON chuo 2013夏号「被災地支援学生団体5団体の紹介」新規ウィンドウ
  3. ^ http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/GreatEasternJapanEarthquake/index.htm新規ウィンドウ
山科 満(やましな・みつる)/中央大学文学部教授
専門分野 臨床心理学
青森県出身、1961年生まれ。
1989年新潟大学医学部卒業。
東京都立松沢病院医員、順天堂大学医学部助手・講師、文教大学人間科学部教授を経て、2010年より現職。
医学博士(順天堂大学)、精神科専門医、臨床心理士。
専門は青年期精神医学、精神分析的精神療法。臨床現場と心理学教育の架け橋となることを目ざし、臨床研究に取り組んでいる。
著書として『精神分析的発達論の統合②』(共監訳)、『精神分析的診断面接のすすめ方』(共著)、ほか。
2013年より「中央大学社会連携・社会貢献推進会議」のメンバーとしてワーキング・グループのとりまとめを行っている。