トップ>オピニオン>現代社会を映す鏡としての、さまざまなオペラ演出——《蝶々夫人》を例として
森岡 実穂 【略歴】
森岡 実穂/中央大学経済学部准教授
専門分野 オペラ演出批評、英文学
私は、大学院では19世紀の英文学を学んでいたが、現在はオペラの演出の分析を研究テーマとしている。不思議に思われるかもしれないが、ちょうど1993年秋から2年間、イギリスに留学してさまざまな批評理論を学んだ時期に、地元ノッティンガムやロンドンで、演劇的に深く読み込まれたオペラの舞台をたくさん鑑賞する機会に恵まれ、文学を解釈するように舞台を「読んで」みたいと思うようになったのである。ヨーロッパでは、劇場とは単なる娯楽の場に留まらず、自らの人生や社会のあり方について考え他者と意見を交換する機会を持つ場所と考えられている。90年代前半とは、オペラについても、音楽という要素に劣らずそうした側面がどんどん重要視されるようになってきた時期であった。
大きな転機となったのが、1994〜95年にロイヤル・オペラで上演されたリチャード・ジョーンズ演出のワーグナー《ニーベルングの指環》四連作の体験だった。ちょうどフェミニズム批評やジェンダー批評を中心に勉強していた私には、そのプロダクションにさまざまな形で織り込まれていた家父長制への異議申し立てがとても強烈に伝わってきた。だがその当時、新聞や雑誌においてそうした視点での批評はほとんど存在しなかった。作品の魅力を伝えるという意味でも、社会的な問題提起という意味でも、そういう批評が存在する必要を痛感し、自分はそういう仕事をやりたいと思ったのである。
私の主要研究テーマのひとつが、プッチーニ《蝶々夫人》のさまざまな演出である。開国直後の日本で、アメリカ軍人の現地妻となり捨てられた日本人女性の悲劇。かつては典型的なオリエンタリズムの図式下でセンチメンタルな物語として消費されてきた作品だが、ジェンダー論やポストコロニアリズムの視点が浸透し始めた九十年代以降、この作品へのアプローチは確実に変化を遂げてきた。昨年刊行した『オペラハウスから世界を見る』(中央大学出版部)でも紹介した例を中心に、ひとつの作品が現代社会の問題を反映する鏡としてどのような多様性を見せるのかを提示してみたい。
たとえばこのグローバリゼーションの時代において、《蝶々夫人》は19世紀の日本でだけ起こりえた物語ではない。ベルリン・コーミッシェ・オーパーでのカリクスト・ビエイト演出(2005年)での蝶々さんは、現代の東南アジアのどこか、村ぐるみでアメリカ人のセックスツアーを受け入れることが生き残る唯一の手段という場所で、なんとかして「豊かな国」への移住を切望している。この舞台は、非常に限定されたグロテスクな状況を描写しているようでいて、《蝶々夫人》が時代や場所を超えた、普遍的な悲劇の「神話」となりうることを教えてくれる。
日本の現代文化に詳しい映画作家・演出家のドリス・デリエは、渋谷のゴスロリ少女を「蝶々さん」と設定し、ある種の幻想の「現代日本」を舞台にした《蝶々夫人》を描く(2005年、ミュンヘン、ゲルントナープラッツ劇場)。巨大な団地の映像が暗示する、日本における強烈な同調圧力の存在。間奏曲での彼女は、車の光が流れる渋谷の夜景を背に、一度繭を作ったのちに蝶として羽を広げる夢を見る。繭に込められた纏足のイメージは厳密には「日本」のものではないが、女性が自由に生き方を選べないという、程度問題はあれ現代日本にも確実にある悲劇を、美しい痛みを持って伝える。
ゼロ年代最後の数年、世界各地で「貧困」問題に焦点があてられる中、《蝶々夫人》新演出でもゼロ年代末以降はこの問題と絡めての表現が目立つ。オルデンブルグでのアンナ・ベルクマン演出では、蝶々さん母子はホームレスである。初演の2009年はアメリカ大統領選直後であり、息子はオバマ選挙キャンペーンのTシャツを着ている。母親とともに貧困のどん底にあって「チェンジ」に憧れているのであろう彼は、「花の二重唱」で、集めた花びらを扇風機の風で大きく舞い上がらせる。しかし彼に用意された未来は元の筋書きよりも過酷であり、この花吹雪にも、貧困層の将来への希望がむなしいという示唆が感じられる。
シュトゥットガルトでのワーゲマイケルス演出(2006年)のように、スズキと蝶々さんの間には、主従関係とは違う、同性愛的感情があったという解釈も登場している。アリア「ある晴れた日に」とその前後、ピンカートンの帰還の話題には、どうしてもやつあたりしてしまうスズキのせつなさ。いま自分のまわりにも、こうして同性に対する恋情を黙って抱えている人がいるかもしれない。そんな、50人にひとりと言われる性的マイノリティの存在可能性を、「見える」ようにしていく試みのひとつ。
テーマの描写という意味でも、音楽との調和という意味でも、こうした新しい解釈がすべて完全に成功しているわけではない。だが、ある作品が作曲されて以来、時代ごとに問い直されて生み直されるうちに、その無数の挑戦の中から時折、一歩あたらしく踏み込んだ「表象=再現」が登場し、その時代における作品の意味や価値が更新される。そういう舞台に出会う時こそ、オペラという気の長いジャンルにつきあう甲斐を、ひしひしと感じる瞬間である。そして、ひとりでも多くの人に、劇場でのこうした上演を、自分たちの生きる社会や自分自身の問題を見直す機会としてもらえれば幸いである。