Chuo Online

  • トップ
  • オピニオン
  • 研究
  • 教育
  • 人‐かお
  • RSS
  • ENGLISH

トップ>オピニオン>Suicaの乗車履歴の販売に賛成?反対?

オピニオン一覧

宮下 紘

宮下 紘 【略歴

Suicaの乗車履歴の販売に賛成?反対?

宮下 紘/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 憲法、比較憲法、情報法

本ページの英語版はこちら

Suicaの乗車履歴の販売!?

 JR東日本が乗車カードSuicaの乗車履歴を加工した情報の販売を決めた。その後、利用者からの不安・反発の声があがり、中止に追い込まれた。

 乗降駅、利用日時、年代、性別といった情報が分析されれば、駅構内の店舗運営や駅前の商業施設にも役立ちそうである。大量のデータを分析することで事業に役立つ知見を導き出す「ビッグデータ」に注目が集まっている。Suica以外にも、スマホの位置情報やインターネットでの通信販売の履歴情報は様々なところで分析され、自治体やビジネスでの利活用が期待されている。

 しかし、Suicaの乗車履歴やジュース、雑誌の購入履歴などから個人の行動パターンや趣味・嗜好まで明らかになってしまう可能性がある。Suica問題に見られるように「ビッグデータ(big data)」はプライバシー保護という大きな課題(big challenge)に直面する。

プライバシーの誤解

 現状では自分の知らないところで個人情報が利用されるのは気味が悪いという漠然としたプライバシー議論によって、ビッグデータの利用が制約されてきた。個人情報と聴けば何でも保護すべきというユーザー側の勘違いと、またビッグデータを口実に何でも個人情報を利用できるという企業側の誤解によって、ビッグデータの推進もプライバシー保護も停滞状態にあるように思われる。

 Suica問題についても、特定の個人が識別できないようにする個人情報の匿名化措置のあり方、当初の利用目的との関連性の判断、あるいは個人情報をどのように取扱っているかを利用者に説明する責任といった観点からその場しのぎの対応も想定できよう。しかし、プライバシーの権利という保護すべき対象が明確にならなければ、ユーザー側の気味が悪いという直観によって個人情報の利活用はいずれ制限されてしまうことになろう。

 そこで、ここは一度立ち止まってプライバシーとは何であり、なぜ保護されなければならないのか、そこから個人情報の利用と保護について冷静に考えてみるべきではないだろうか。

グローバルな課題とローカルな文化

 海外のプライバシーコミッショナーと意見交換した際、日本のグローバル企業の個人情報漏えいに関するトラブルはあまり耳にしないが、なぜなのか、と聞かれることがある。日本では個人情報保護に万全の備えをしており、万一漏えいの事案が発生しても、企業は事実を通知公表し、顧客への謝罪をするとともに、裁判にならなくても自主的に金券を配布したりする。これは他の国では見られない日本独自の「プライバシー文化」であって、ある程度厳格なプライバシー保護の水準が維持されてきたからである。他方で、大学の同窓会名簿の作成が取り止められたり、災害時にも必要な個人情報の共有がなされず、行き過ぎた保護が進み過剰反応も見られた。

 プライバシーはそれぞれの共同体意識を反映する社会規範や文化である。しかし、情報は国境を越えて流通する。日本独自の「プライバシー文化」は大切にすべきであるが、同時に、プライバシー保護が国境を越える普遍的な課題であることを理解することも重要である。

プライバシー権について冷静に考える

 アメリカでは個人主義に根ざした政府からの自由を基軸にプライバシー権を構成してきており、EUでは身分制社会とナチスによる個人情報の管理の克服から尊厳を基盤にプライバシー権を保障してきている。アメリカでは、インターネット上の閲覧履歴を無断で追跡することを禁止する「追跡禁止」の仕組みが推奨され、EUではインターネット上からプライバシーを侵害する個人情報を消去する「忘れられる権利」ないし「削除権」が提唱されている。さらに、たとえば病歴や治療歴から特定の個人像を導出し、差別・偏見の原因となるようなプロファイリングには規制が必要である、というのが国際的な潮流である。プライバシーに関する感覚的な議論ではなく、日本でもプライバシーがなぜ権利として保障されるべきかという基本的な哲学を今一度見直す時期に差し掛かっている。

 プライバシー権を世に生み出した裁判官ルイス・ブランダイスは「最も包括的な権利の1つであり、文明人によって最も高く評価された権利」としてこの権利の重要性を説いた。個人情報が無断で他者に横流しされるような国は品格なき国家とみなされる。そうなれば国境を越えたデータ移転の信頼性は損なわれ、長期的にはビッグデータの失敗を招くことになろう。プライバシーが権利として保障されて初めてビッグデータの利活用も可能となるのであり、日本の成長にとって個人情報の保護と利用はいずれも重要な課題である。

宮下 紘(みやした・ひろし)/中央大学総合政策学部准教授
専門分野 憲法、比較憲法、情報法
一橋大学大学院法学研究科博士課程修了、博士(法学)、内閣府個人情報保護推進室(国際担当)、ハーバード大学ロースクール客員研究員等を経て現職。
主な業績として、『個人情報保護の施策』(朝陽会・2010)、「『忘れられる権利』をめぐる攻防」比較法雑誌47巻4号(2014)、「ビッグデータの活用とプライバシー保護」法学セミナー707号(2013)、「プライバシー・イヤー2012」Nextcom12号(2012)(Nextcom情報通信論文賞受賞)、「ルイス・ブランダイスのプライバシー権」駿河台法学26巻1号(2012)、現在『時の法令』に「privacynews」を連載中。