トップ>オピニオン>選挙とは何か:代表性、コスト、統治可能性の間で
工藤 裕子 【略歴】
工藤 裕子/中央大学法学部教授
専門分野 政治学、公共政策学、公共経営学
この小論が公になるのは東京都知事選挙投票日の翌日。当選者は既に明らかになっている。しかし原稿は選挙戦の最中に書かれており、筆者にはもちろん、当選者はわからない。したがって本稿では、当選者予想や候補者の公約の分析ではなく、選挙とはそもそも何かを考えてみたい。
東京都の有権者はこの三年間に三回、知事を選んでいる。任期満了に伴う2011年4月10日の選挙では、石原慎太郎元都知事が4回目の当選を決めたが、一年半ほどで辞任。衆議院議員選挙と同日選挙となった2012年12月16日には、石原氏の副知事を務め後継者と目された猪瀬直樹氏が圧勝した。ところが徳洲会グループからの資金提供問題から辞任に追い込まれ、今回の選挙となる。市民の代表を選出する選挙は民意を問う重要な機会であり、投票が国民の権利かつ義務であることは自明だが、その選挙で選ばれた知事の辞任とそれに伴う選挙がこうも続くと、選挙の意味を問いたくなる。
大阪市でも橋下徹市長が辞職、出直し選挙を行う意向を表明し、波紋が広がっている。2011年11月に市長に選出された同氏は、停滞している大阪都構想に関して民意を問うための選挙というが、議会の政党構成が変わるわけではなく、この選挙の意味を問いたくなる。当人はさらに、出直し選挙で勝利しても状況が打破できない場合は年内にもう一度選挙を行うことを仄めかしているが、選挙は特定の政策を進めるための手段ではないはずだ。
今回の都知事選の特徴として、首相経験者を含む重量級の国政出身者が候補になったこと、通常は都知事選の争点にならないイシューが多く取り上げられたことなどを挙げる向きが多いが、納税者が負担する「選挙の費用」が話題となったことは注目に値しよう。選挙制度を研究の一領域としている筆者にとって、選挙に関係するさまざまなコストを考慮することは当たり前であるが、マス・メディアやソーシャル・メディアが「選挙の費用」をこれだけ議論したことがあっただろうか。有権者の選挙疲れの表れか、あるいは、「行政の無駄」が追求される一方で「政治の無駄」は一向に追求されないことに疑問を抱く一部メディアの戦略か。
ネット上などでは50億円という数字が躍っているが、この根拠は、東京都が都知事選のために編成した補正予算の49億900万円であろう。都知事選の有権者は1,081万人。有権者一人当たりにかかる費用は454円。これを高いと考えるか安いと考えるかは、選挙のコストをどのように捉えるかによる。これまでは選挙の度にデモクラシー論を高らかに謳いあげてきたメディアが、通常であれば四年に一回発生する費用が、一回は同日選挙のためにやや安く済んだとはいえ、三年間に三回も発生しているという事実を指摘し始めたことは興味深い。
これまでの「選挙のコスト」をめぐる議論は主に、「候補者が選挙戦にどれだけの費用を費やすか」ということであった。候補者があまり費用をかけずに選挙を戦うことができる方法がよりよいとされ、「お金のかかる(あるいはかからない)選挙」が議論されてきた。これは、資金の潤沢な候補者のみではなく、被選挙権を持つ誰もが立候補し、選挙戦を戦うことができる制度が民主的である、という考え方による。このため、政党交付金に関しても、選挙をいかに公的に運営するか、が重要な課題とされてきた。
このような意味での「選挙のコスト」は選挙制度と密接に関係している。日本においては中選挙区制から小選挙区比例代表制並立制に改正された際、コストのかからない選挙になると言われた。政党間の戦いとなる小選挙区比例代表制並立制は、候補者間の戦いとなる中選挙区制よりも、候補者個人にとっての選挙コストは確かに低くなる傾向がある。しかし、選挙区数の増加や有権者が二票を投じるようになることに伴う「選挙(遂行のため)の費用」は増加する。
世界にはさまざまな選挙制度があるが、これらの中で、例えば二回投票(決選投票)制は、小選挙区制で増加する死票を顕著に減らすことはできるが、選挙の費用も候補者にとってのコストも、いずれも高くなる。比例代表制においては、拘束名簿ではなく非拘束名簿を用い、選好投票を実施すれば、得票結果が議席に直結し、より民主的といえるが、投票コスト、開票コスト、そして候補者にとってのコストも、いずれも高くなる。これらは、いわゆる民主主義のコストであるが、費用対効果を無視することはできない。「どこまで民意を反映できるか」という視座と「どこまで費用や時間をかけるのか」という視点との均衡を探る中で選挙制度がデザインされる。
民意とコストのバランスのみならず、民意とガバナンスの均衡も重要である。比例代表制は少数派の代表性を担保するが、多党分立となって政権運営が不安定となる傾向がある。小選挙区制は死票が多くなり、民意の反映には課題を残すが、「強い候補者」を選出しつつ少数の「強い政党」に収斂し、安定した政権を生む可能性を持つ。したがって選挙制度の選択においては、代表性と統治可能性の均衡をいかに模索するか、も追求される。
その歴史的な経緯から統治可能性を優先したイタリアのプレミア付き比例代表制に対し、憲法裁判所は2013年12月、民意を反映していないとして違憲判決を下した。選挙制度の改正にあたり、代表性を担保しつつ統治可能性を実現するプレミアは何パーセントか、が議論されている。これまでのように統治可能性の強化のみを追求するのは難しくなりそうだ。代表性と統治可能性の均衡がどこに見出されるか、新しい選挙制度の設計から目が離せない。どちらかというと代表性を優先してきた日本の選挙制度にも、統治可能性との均衡を再考する時期が来ているのかもしれない。