トップ>オピニオン>国境を越えて戦争体験を分かち合う―中央大学日蘭交流会について―
宮丸 裕二 【略歴】
宮丸 裕二/中央大学法学部教授
専門分野 英国文学・文化
かつて、太平洋戦争を戦場や国内で体験した人々の話というと、祖父祖母といった家族や親戚を通じて、教室や修学旅行など学校教育を通じて、人の生い立ちなどに触れる際などに、そこここで聞く機会があった。ところがこの20年ほどの間に、気づけばそうした話に触れる機会はめっきり減った。それは、戦中を体験した人だけでなく、絶望的な焼け野原の中に孤児が溢れ、飢餓や貧困の中を生き延びねばならなかった戦後を体験した人も減ってきて、「戦争を知らない子どもたち」ばかりになってしまったからである。日本も含めた国際間の政治的な対立が話題になる時に問題解決の手段として戦争に言及されることはむしろ増えたかも知れないが、それはどこまでも抽象的な話であって、戦争の具体的な体験談については聞くことがあまりなくなった。
平和ボケということは、20年前、30年前にだってとうに言われていた。毎年、真珠湾攻撃の日、東京大空襲の日、原爆投下の日、終戦の日に、テレビの取材班が「今日は何の日だか知っていますか」と若者が答えられないことを想定してマイクを向けて、できるだけ脳天気な回答を期待する演出さえ、昨今では少なくなった(実は戦後15年ほどから始まった長い伝統を持つ取材・編集法のようであるが)。かつては、これらの日を知っておくことがせめてもの正しい姿勢だとされ、いわば戦争体験の尊重は道徳の一部となってきたわけだが、こんな演出をして遊んでいられることがもう平和ボケだったのであって、こうして道徳の一つに位置づけてしまったことが、戦争体験が我々の生活から疎遠になった一因かも知れない。
しかし、戦争体験というのは、そうした道徳的な知識ではなく、むしろ実用的な知識なのである。ひとたび起きれば、選択の自由はなく、家を失い、家族も友人も失い、命を失い、過去の日常生活のすべてを失い、人と人との間に亀裂をもたらすのが戦争で、その被害を知ることは人生についての実用的な知恵の最たるものである。
戦争について聞く機会が減っても、かつて話を聞いたことがある者はその記憶を知識として留めておくことができるが、より若い人々になるとまったく耳にしたことがないという場合も少なくないかも知れない。しかし、現代にも戦争を語り、聞くことができるとすれば、その利点は、かつてはほとんど同国人同士での体験共有に留まっていたのに対し、かつての敵国を含む外国の方々を相手に対話をし、世界的体験として戦争について話すことができるような時代になってきたということである。
そうした国際間で戦争体験を共有する場を意図して、過日、中央大学にて日蘭交流会を開催した。
冒頭で歓迎の挨拶をする折田正樹元教授
2013年11月18日に、中央大学にて「日蘭交流会」を開催した。国際センターの主催により、また外務省欧州局西欧課の協力の下、新井潤美法学部教授と私とで開催の運営を担当した。第二次世界大戦は政治的には遠い過去に解決したが、人々の間に残された禍根は、トゲとして今も深く刺さったままである。そこで外務省は1995年より「日蘭平和交流事業」(かつては「日蘭架け橋事業」)により、オランダ人の戦争体験被害者を日本に招聘し、日本を理解してもらい、日本人と交流する機会を設けてきた。元外交官にして元本学法学部教授である折田正樹氏の手引きにより、2007年度以降はその旅程の一つとして中央大学を訪れ、学生と直接に対話する交流会を開催してきた。本年度も例年同様、中央大学が主要な訪問先となり、学生との対話の場を設けることができた。
オランダ人団体代表による挨拶
学生による質問が活発に行われた
今回はオランダ人の戦争被害者団体が選出した14名が事業に参加し、その全員に中央大学の交流会にお越し頂くことができた。戦争を体験しているので当然高齢の方々になるが、しかし、それでも旧オランダ領インドネシアの日本軍の収容所で幼少期を過ごした、比較的「若い」戦争体験者ということになる。迎える学生の側の参加者は50人におよび、本交流会を前に世界大戦のこと、帝国主義や植民地のこと、オランダの文化や歴史、江戸時代から戦後に至るまでの日本とオランダの関係の歴史について春から学んで準備をしてきた。交流会は、新井潤美教授の司会により、英語によって、時に日本語と通訳によって補うかたちで進められた。折田正樹元教授の話に始まり、続いて、オランダ人団体の代表4名が体験を話し、質疑応答が行われ、スティーヴン・ヘッセ法学部教授による話で締めくくりとなった。
オランダ人参加者の方々による戦争体験についての話は、戦時中当時の経験を報告するのが半分であり、もう半分は終戦から今日に至る時間の幅をもって語っていたことが印象的であった。つまり、戦争が終わってから、戦時中の記憶を反芻する過程、戦争が終わってからの日本人の印象、日本人への恐怖、日本人へのわだかまりや、それを心の中で整理してきた経緯についての話である。戦時中の体験については遠い過去のことであり、幼少期のことでもあり、記憶がはっきりしないことや、事実とそうでないことが混在している部分もあることは話者も大いに認めながら話すところであるが、それだけに戦争や自分の国や日本について時間を重ねてかたち作ってきた印象というものがそのまま吐露されており、歴史書を繙く際と大いに質を異にする「個人の物語」としての話に価値があり、それはなかなか直接の対話の機会でないと触れることが難しく、その点で貴重だと言えるだろう。
懇親会で会話をするにつれうちとける参加者たち
また、交流会を大いに意義深いものにしたのは、体験者の話を聞いた後の質疑応答に始まる交流である。主に英語での会話ということもあり、大半の学生が臆してしまうかも知れないという私の当初の予想を見事に裏切って、学生たちは積極的に手を上げ、関心が次の関心を呼び、大変活発に対話が行われた。休憩時間にも盛んに会話を交わし、その交流は懇親会まで持ち越され、設定した時間では足りないほどであったのは、本学に勤める教員としても鼻が高いところである。
オランダからの参加者と学生との間に交わされた対話は、「日本では美味しい食べ物はありましたか」といったような質問に始まり、やがて、「今日の日本人の印象について」、「オランダと日本のインドネシア統治政策の違いについて」といった内容に入っていった。中には原爆資料館を訪れたことを踏まえ「日本に原子爆弾を投下するという戦略の正当性について」といったなかなか答えにくい質問もあったが、投下された当時としても理性と感情で二面性を抱え二つの回答を持っていたという正直な心情で回答されていた。また、日本で戦争体験を若い人が聞く機会が減っていることを受けて、オランダでの戦争体験伝承についての質問もあった。今日の状況とも無縁でない深刻な話題にも及び、必ずしもすべて結論において納得し合うような対話内容だけではあり得ないものの、この度の交流が終始大変良い雰囲気の中で進行したのは、体験や考えを極力伝えようとする正直にして真摯な双方の姿勢があり、なによりお互いを理解しようとする意志がこれを支えていたからであるように思う。また、話を聞いていて、対話をしていて見えてくることは、インドネシアで戦争を体験したオランダ人の方々の中で、戦争や日本人に対する怖れと憎しみ、それを払拭しようと努めたことや、日本人との和解、疑念の再来、理性による思考と心情の乖離といったことが、行きつ戻りつ、迷いの中にあり、時に方向性を変え、時に反復しつつ、実に長い時間をかけてゆっくりと辿ってきた繊細なプロセスであるということである。今もそのプロセスの中にありながら、それを部分的にであっても言葉にして、自分の責任の下に人に聞かせることは、ある種の決意を伴うことであろうと思うのである。
中央大学からの記念品として渡した風呂敷について話す参加者
日本で戦争体験が語られる時、どうしても日本人が体験した話に焦点が絞られる傾向があったことは否めないのではないだろうか。確かに第二次世界大戦で日本人は総じて未曾有の規模で憂き目を見たのであるが、戦争による日本以外での被害に目をつぶらせてしまうことがある。例えば空襲といえば東京大空襲が思い起こされて、ロンドンやベルリンでの大規模にして長期にわたる空襲については知らない人も少なくない。市民を巻き込んだ上陸作戦というと沖縄となってしまって、中国各地やパリやベルリンのことは意識から薄れがちである。ともすると第二次世界大戦での死者は日本人が最も多いと信じている人は戦争体験者の中にも少なくないが、最大の死者を出しているのはソビエト連邦である。どの国が戦争の加害者でどの国が被害者であるとか、国民の損害とその国家の責任の分担領域ということを別にして、広く世界中で市民が戦争で被災し辛酸をなめたことはやはり知られていて良いし、日本での戦争体験と同様に直接に体験者の話を聞くことは貴重なのである。
今回の場合はオランダとの関係であるが、日本人とオランダ人、またそれぞれの国家が、それぞれどの程度責を負うべきかについては様々な議論があるだろうが、ともあれ、日本とオランダが第二次世界大戦で接点を持ったことさえ多くの人々に忘れられがちな中では、その体験者の話を聞くことには大いに意義をあると思っている。残念ながら減少しつつあるものの、日本で長年にわたり語られてきた戦争体験伝承は、その点で自国民についての話に限られざるを得ない面があった。そうしてみると、今回のような交流会は、日本人以外の人々が体験した戦争についての話を聞くという意味で、国際交流の意味をもう一つ新たに付け加えるものであると言えるだろう。そもそも戦争そのものが負の意味ではあっても国際的体験なのであって、大半の日本人が一生を何度生きても外国に行くなど夢のまた夢であった時代に、従軍というかたちでは国外に出て行って外国人を相手にするのが戦争である。そのことについて話し、戦争について考えようとするなら、国際交流はいよいよ盛んに行われるべきであろう。したがって、戦争体験について語られる機会はこれからも減っていくであろう一方で、今日の若者は日本人以外の人々の戦争体験を聞く機会を得つつもあるのである。
風呂敷の使い方を実演して見せて得意気な宮丸
自ら志願して従軍した者だけが戦争に関わるだけの時代は遠い過去となり、20世紀以降は国民が無関係でいられる戦争はあり得なくなった。生活者の物資の制限、徴兵、国土への直接攻撃、市民への殺戮や危害、捕虜としての収容と、選ぶところなく生命や財産を差し出すものへと、戦争はその意味するところを大きく変えて久しい。そうなって以後、理不尽でない戦争はあり得ないのであるが、その理不尽さの理由を短絡的に求めるならば敵国とその国民全員が憎き元凶と映るのは必然である。敵国の人間を鬼畜と呼び、悪魔と思うようになり、本質的に悪い人間なのだとみなしてしまうようになる。この不幸を修正するには長い時間がかかり、時に人の一生では足りないほどである。少しでも戦争相手という文脈とは別のところで特定の国の人についての印象を修正していくことは重要であろうし、そのためには話を聞き、対話する、あるいはそのための場を設けることが必要となる。
今回の交流会では、例えば戦争が直接の題材ではあったが、自分のことだけ、家族のことだけ、村のことだけ、日本のことだけではなく、あらゆる立場に置かれた人々を容れた視野で考えられるようになることが世界市民になることであるし、そうした視野を獲得してゆくことはむしろ立派な教育を受ける立場に恵まれた者の責務であると言っていい。現在でも世界中に見られる戦乱が、自分に関係ないものと考えるか、関係あるものと考えるのかも実にその点にかかっている。本学が育成することを掲げるグローバルな人材というものも、そうしたものであると考えている。そして、対話を経ることで、自分が世界にどう映っているかということについての理解を深めることにつながるし、同時に自らを書き換えることにもつながるものと信じている。
今回の交流会の参加者のみなさん