私は、経済学部で「キャリアデザイン」と「マルクス経済学」の授業を担当しています。その2つの科目担当は、見方によれば奇異に思われるかもしれません。なぜならば、マルクス経済学は、資本主義を批判的対象として考察するところに特徴があり、資本主義的な営利を追求する経済主体の担い手育成に関与するキャリア教育とは矛盾するように思われるからです。その矛盾を解決するカギは、弁証法的思考と私のマルクス経済学者としての未熟さに求めることができます。この点を説明(釈明?)しながら、「キャリアデザイン」科目を紹介するとともに、キャリア教育についての私見を述べたいと思います。
1 批判の未熟さと「キャリアデザイン」担当
まずは、学問的な「批判」の捉え方について説明します。批判とは、「批判する対象をまずは肯定的に捉え、その対象を正確に理解することから始め、その対象に問題があれば、その問題あるいはその対象を否定する諸側面、諸要因の発生の必然性を明らかにすること」と私は捉えています。マルクス経済学者として、資本主義を批判の対象として分析・研究していますが、資本主義に関しても、またそれを肯定して理論化する経済学に対しても、まずはそれを肯定的に捉え理解することが肝要だと考えています。その考えは、私のゼミでマルクス『資本論』を一度もテキストにしたことがなく、ノーベル賞を受賞したアマルティア・センやジョセフ・スティグリッツの本をテキストにしていることにも反映されています。
批判対象をできる限り正確に分析し理解しようと努める段階に留まっているという点で、私は未熟者といえます。しかし、それだからこそ、「キャリアデザイン」科目を違和感なく担えることにもなります。また、肯定と否定との対立を止揚する動きを発展と捉える弁証法に基づけば、むしろ「キャリアデザイン」担当は、自己を発展させる一契機にもなりえます。
2 なぜ弁証法的思考なのか
自然や人間社会、あるいは人間そのものの変化・発展の捉え方を示す弁証法は、私が「キャリアデザイン」を担当するにあたっての葛藤と担当による私自身の成長に関わるだけではありません。私は、キャリア教育を推進するうえでも、弁証法的思考が重要な見方を提供しうるものと考えています。
自分自身をどのようによりよい方向に成長させるかという課題がキャリア教育に課されているとすれば、人間の変化・発展、すなわち成長のあり方を示す弁証法は、まさにキャリア教育への指針を与えるものといえます。
人間が自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きることと定義される自己実現は、キャリア教育にとっての導きの糸になりえますが、自己実現の過程で、悩みを持って葛藤し、悩みを克服しながら自己を発展させる必要性も生じえます。自己に存在する対立(葛藤、悩み)の止揚(克服)が自己を変化・発展(成長)させるとすれば、自己を発展させる力は、自己自身に存在することになります。その力を培うものとして重要な役割を担うものが教育だといってよいでしょう。「キャリアデザイン」も、その教育目標の一翼を担うものと私は位置づけています。
3 「キャリアデザイン」のねらいと内容
「キャリアデザイン」のねらいと概要を、2013年度の授業シラバスで紹介します。
「自分自身の未来を切り拓く力は、自分自身の中にあります。自分は、何を考え、何をしたいのか。自分は、どのような力を持ち、それをどのように発揮すべきなのか。あるいは、どのように発揮できるのか。力が不足していれば、それをどのようにして身につけるのか。すべては、自分の成長に関わっています。自分を成長させる進路設計は、自分の生き方に指針を持つことでもあります。そのことは、大学で自分が何を学べばよいのかということにもつながります。皆さんの進路設計や生き方の指針を考える上で、先人の経験は、重要な参考材料になりうるものといえます。本科目では、社会の様々な分野で活躍している方々をゲスト講師としてお招きし、体験談を話してもらいます。」
上記のシラバスに沿って、2012年度は、各種業界の社長・役員、直木賞作家(タレント)、観光ジャーナリスト、司法書士、金融アナリスト、オリンピック金メダリストなど、また、2013年度は、各業界の社長・役員のほか、航空関係者(元政府専用機VIP担当)、郵政省や自治体の元幹部職員など、様々な分野で活躍をされているゲストをお招きして、職業選択や体験談、苦労話や仕事の遣り甲斐などを話していただきました。日本銀行からも、2年に亘って講師を派遣していただき、「日本銀行の役割と金融政策」の講義だけではなく、「キャリアデザイン」の趣旨に則して、講師の経験談を交えて話をしていただきました。
4 「キャリアデザイン」から何を学ぶのか
「キャリアデザイン」で話をしていただいた講師の皆さんは、各界で活躍されてこられた、あるいは現在も活躍されておられる方々ですが、多くのゲスト講師に共通してみられる点は、必ずしも順調な職業選択をしてきたわけではなく、多くの方が転職を経験されているということでした。紆余曲折の中で、強い信念を持ち続け、独自の行動指針を持っているという点でも、共通点がありました。その人生経験と経験によって掴み取った行動指針から、学ぶべきことが多々あったものと考えます。
各ゲスト講師の話を聞く前の段階で、私は、次のような「10の心得と行動指針」を学生に示しました。①空回りしないで、地に足をつける(焦らない、バタバタしない、平常心で効率の良い行動を冷静に考える)②負けない(勝つと思うな、思えば負けよ)③基本を大切に(基本姿勢:メッキしない素直な自分。迷ったら原点に帰れ)④相手を知り、己を知る(情報収集、情報分析、適正を見極める)⑤(相手には)一期一会の気持ちで(相手を尊ぶ心、出会いを大切にする心)⑥(自分には)自信を持つこと(潜在的能力を含め、自分の能力を信じ、能力を最大限に引き出す努力をする)⑦マイナスをプラスに転化する(例えば、逆境をチャンスに換える)⑧何事も楽しもう(常に前向きに、プラス志向で)⑨最後まであきらめない(あきらめない気持ちが、道を拓く)⑩中大生に徹せよ!(「質実剛健」「まじめ」:中大生としての誇りを持とう)
私の示した行動指針に実体験を踏まえて肉付けをし、自身の職業体験を交えて学生に力強く語ったゲスト講師の経験談は、学生にどのように響いたのでしょうか。その一端は、学生による授業レポートによって窺われますが、その体験談が活かされるのは、学生の皆さん自身の人生においてということになるでしょう。
5 結びにかえて ―今後の課題と展望―
2年間の「キャリアデザイン」授業を振り返って思うこと、また担当して常々感じていることは、非常に中身の濃いゲスト講師の話をより多くの学生に聞かせたいということです。経済学部開講の1年生対象の授業にもかかわらず、1年生から4年生まで、また多摩校舎にあるすべての学部から履修者があり、8号館の大教室を使用しましたが、今年度の授業履修者は、前年度よりも増えているとはいえ、250名弱に留まりました。同じく授業を担当しているマルクス経済学の履修者がその3倍ほどであることを考えますと、履修者のさらなる増加が望まれます。
「キャリアデザイン」は、全学共通の「キャリアデザイン」関連科目も開講されており、経済学部と同様に独自に開講されている学部もありますので、それらが連携すれば、教育効果をより高めることが期待されます。しかし、その連携は、今のところ希薄なように思われます。中央大学では、『知性×行動特性』が大学の特性として掲げられ、コンピテンシー(社会で活躍できる力)の自己評価システム(C-compass)の開発・推進が積極的に試みられていますので、「キャリアデザイン」の全学的な連携がより求められているといっても過言ではありません。その連携は、例えば、中央大学共通基礎能力(Chuo Common Cores)科目の設置が今後検討されるとすれば、「キャリアデザイン」をその主要な構成科目に据えることで実現するのではないかと考えます。
大教室に溢れんばかりの学生が目を輝かせてゲスト講師の話に耳を傾けるという光景は、一つの到達目標ですが、そのような到達点を求める気持ちが道を拓くということ、これも、「キャリアデザイン」で示した行動指針から導き出される展望といえるかもしれません。