岩田 重則 【略歴】
岩田 重則/中央大学総合政策学部教授
専門分野 民俗学、歴史学
土蔵のなかの花束 岩手県上閉伊郡大槌町
2011年12月
東日本大震災あった2011年(平成23)の年の瀬、岩手県上閉伊郡大槌(おおつち)町をたずねた。夏以来の2度目の訪問で、夜行バスで早朝に着き、アポイントメントをとっていたある寺院のご住職からお話をうかがったあと、被災後はじめての冬を迎えるかつての市街地を歩いた。川にはサケが遡上していた。瓦礫がほぼ撤去されまっさらになったかつての市街地をはしる幹線道路の脇に、倒壊をまぬがれた土蔵がひとつあった。大きめの容器が置かれ花束が咲き乱れていた。夏におとずれたときと同じ光景である。
倒壊をまぬがれた鉄筋コンクリート3階建てがぽつんとあった。なんとその2階で喫茶店を再開している。廃墟とでもいうべきなかの喫茶店である。このとき客は私ひとり。店主のかたから震災のかなしくなるような話を聞いた。この喫茶店の窓からさきほどの土蔵をながめながらうかがうには、お嫁さんとお孫さんを亡くした女のかたがほとんど毎日のようにこの土蔵をおとずれて手向けているという。ご遺体の発見場所ということであった。
瓦礫のなかの高田一本松 岩手県陸前高田市
2011年12月
2012年(平成24)3月11日、震災からちょうど1年後、岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市をたずねた。夜行バスで早朝についた。雪がちらつく朝であった。3度目の訪問で、被災後1年、瓦礫もほぼ撤去されほぼまっさらになったかつての市街地を通りある寺院をたずねた。午前中の一周忌法要を目立たぬように見守らせていただいた。今日この日から、陸前高田市の犠牲者ひとりひとりの氏名を記した1本1本のロウソクをともし、供養を続けるというご住職のことばが印象的であった。午後、公的な慰霊祭を見守らせていただいた。震災のおこった時刻、そのときからの1分間の黙祷。1分間が終わっても、海に向かい目を閉じたままの人を多くみた。
高田一本松は気仙川の河口に近い。瓦礫とかつての高田松原の残骸が積まれたなかを通り抜けていく。薄暮のなか高田病院にたどり着く。真っ暗になってもすわっていることにした。震災直後、病院のなか・屋上で多くの人たちが救助を待ったところである。ニュース映像でみた覚えがあり、それから1年後の同じ時間、暗闇と厳寒のなか、およばずとも同じ時間を共有してみようと思った。そのあと、壊滅といっていい暗闇のかつての市街地で、方向感覚を失い自分の位置がわからなくなった。懐中電灯とスマホのGPS機能でかろうじて旧市街地から抜けることができた。
花束を手向ける 宮城県東松島市
2011年11月
東日本大震災から2年半余がたつ。実は、最後に被災地をおとずれたのは昨年9月で、もう1年間おとずれていない。自分の専門領域のひとつ、死者祭祀・墓制調査という大義名分で、いくつかの被災地をおとずれるうち、これは書いてはならないのではないか、また、調査じたいをするべきではないのではないか、思い悩むようになった。いま紹介させていただいた大槌町と陸前高田市の寺院で、身元不明のかたがたのご遺骨が並んでいるのをみたとき、宮城県のいくつかの市町で、犠牲になったかたがたのご遺体の火葬ができず、臨時の土葬をみたとき、表現能力をなくすというべきか、ことばを失うとはこういうことかと思った。また、東京で見聞きする報道は、たとえば、高田一本松なら高田一本松だけを映し周囲の瓦礫や壊滅した街、陥没した土地を映さず、一面的で限定的な報道だけが氾濫していると思うようにもなった。
震災後、原発事故、また、いわゆる復興に向けての歩みのなかで、メディアであり、また、さまざまな研究分野で、東日本大震災についての発言が多い。特に最初の1年間はちょっとした流行とでもいうべき状態であった。しかし、この人たち、被災地の地面に足をつけて被災したかたがたとほんとうに接しているのか、そんな疑問を持つことも多い。
ただそれでも、被災地と被災したかたがた、そしてなによりも、犠牲になったかたがたを主人公にして、東日本大震災を記憶にとどめていかなければならないと思う。トラウマのようになり風化など考えられない記憶があまりに多いはずである。かなしみをかかえている人、かなしみがより深くなっている人、精神的なバランスを崩している人も多いはずである。いわゆる復興、壊滅といっていい打撃をうけた地域社会では特にそれはもっとも重要であり最優先課題である。しかし、それとともに、震災後の現在も含めて、尽くせないほどに存在する東日本大震災の記憶をどう残せばよいのか、そんなことを思う今日このごろである。