東日本大震災が発生し、3回目の夏である。
東北の夏は短く、空の色、風の音にも、秋の気配が漂っている。
発災以来、学術研究の立場から、被災地の復興を支援している。私の専門は、「環境デザイン」であり、人と自然の共生の在り方について、分析、評価、計画、そしてデザインを行ってきた。しかし、今回の津波からの復興は、これまでにはない、大きな困難が伴っている。すなわち、津波は、すべての人の営みを消滅させ、大地そのものを揺るがしたものであるため、手がかりを探し出すことが難しい。沿岸部にあった暮らしの営みは、消え失せ、そこに住んでいた人々も、仮設住宅にばらばらとなり、かつての村は、茫々たる草に埋もれている。遠くからみれば、緑の草原であるが、身の丈ほどの叢をかきわけると、家々の土台が埋もれている。
遠く、山並みを臨むと、かつては存在しなかった赤土の斜面が、各所に出現していることに、驚かされる。むき出しになった山肌は、沿岸部の土地を嵩上げするために、切り出されているためである。津波の余波が、美しい山並みにも波及しているのが、東北の現状である。落胆と希望は、あざなえる縄のごとしであり、目を足元に転じれば、3年ぶりの稲穂が、風にゆれ、瑞穂の国が復活しつつある。
一向に進むとも思えない復興であるが、その一端を紹介したい。私が支援をしているのは、仙台平野の南部一帯である。当該地域は、慶長年間より、津波の被害はなく、このため、多くの人びとが犠牲になった。沿岸部の江戸以来の集落は、残らず消滅した。何もなくなり、残されたものは、「人の絆」であることが、共有している、恐らく、最も大事なものであると、最近、とみに思うようになった。この間、仮設住宅の皆さんと、新しく移転する集落の計画を考え、支援を行っている。ここでは、集落のまとまりが強く、避難所から仮設住宅への移動も、コミュニティ単位で行われ、集団移転地も、コミュニティを単位として実施されようとしている。どんなに、新しい家でも知り合いのいない所には、住めないという。6つの集落が一つになることが決まり、約500世帯の皆さんが住む、それぞれの場所も、集落ごとの話し合いで、決定した。驚くことは、この困難なプロセスで、いがみ合いや怒号がとんだことは、一度もなかったことである。また、解決できない問題は、多数決により決めることは、おこなわず、じっと意見を確認し、果実が熟すように、時間をかけて話し合いが行われたことであった。寡黙で、待つことを知っている東北の人々の、「しぶとさの美学」であろうか。
この「しぶとさの美学」を、いま、私は、人間関係だけではなく、海岸林の調査で実感している。環境デザインの基礎は、生態学にあり、私の研究室は、津波で残った海岸林の学術調査をローラー作戦で、実施している。海岸林は、一般には、マツ林の単調な森であるとの先入観があるが、実際の海岸林は、遥かに多様性に、とんだものである。古くは、仙台藩城主、伊達正宗が仙台平野の米作の振興のために広大な海岸林の植樹に着手したものであり、その意味では、単なる自然の森ではなく、人間がつくりだした「文化的景観」である。森に入り、感銘を受けるのは、草木の生命力である。江戸以来の大木は残り、昭和期に植林された壮齢樹は壊滅したが、林床には、若いクロマツ、アカマツ、コナラ、ヤマザクラ、そしてヤブコウジ、テイカ蔓、チジミザサなどの里山の構成種が、ひしめき合って回復している。更には、津波の攪乱により、森の照度があがり、カワラナデシコ、コオニユリ、オミナエシなどの懐かしい野の花が咲き乱れ、さながら百花繚乱の感がある。残った森は、砂丘上などの微高地に多く、わずかな比高の差ではあるが、低地は、地盤沈下により湿地となっているところが多い。湿地には、水鳥が飛来し、恐らく環太平洋の渡り鳥の経路となっていくものと思われる。この地表の凹凸が、多様な植物の生育を可能とする生物多様性のゆりかごとなっている。
隣接地で進む林野庁の海岸林の復興は、ガイドラインに、津波被害を軽減するために、「均一な森をつくる」とされており、台形で直線を引いたような無機的基盤がつくられつつある。石川研究室の海岸林調査は、真の豊かな森は何かということを学術調査から明らかにし、復興の在り方の方向性を再検討していただくデータを提示していくことを目標としている。残された時間は、わずかである。
どのように、高い堤防を築いても、今回のような津波を防ぐことは、できない。それならば、自然の猛威を前提とし、被害を受けても、立ち上がることのできるインフラを構築するという発想の転換が必要である。
いま、求められることは、「しぶとさの美学」である。