私は英語辞書学を専門としているが、専門を問われ辞書学と答えると概ね、「辞書学。そんな学問があるんですね。」「辞書学。初めて聞きました。」という答えが返ってくる。辞書学がもっとも発達している英国でも事情は同じようなものだと思う。20年近くも前になるが、学生時代インターンシップでお世話になっていた出版社辞書部でも、「パーティーで仕事を聞かれるのが一番面倒。レキシコグラファーって答えたって、それ何って話だし。」と社員たちが話していた。しかし、辞書を知らない人、辞書が何であるかを知らない人はいないだろう。身近な存在であるはずの辞書だが、誰がどのように作っているのか。『舟を編む』(三浦しをん著、光文社、2011)は、辞書編集部を舞台にした小説で、2012年本屋大賞を受賞した。そして今年4月には映画化までされた。辞書編纂という非常に地味な設定の小説がベストセラーになり、これほどまでに評判になるとは(直木賞作家の三浦しをん氏とはいえ)意外であった。そこで、『舟を編む』の魅力に(国語辞典に関しては門外漢ではあるが)迫ってみたいと思う。
「地味な」編纂作業
辞書編纂は非常に地味な作業である。『舟を編む』の中でも、その点が美化されていることはない。主人公の馬締光也を中心に改訂を進めている中型国語辞典『大渡海』の校正作業中に、見出し語が一語抜け落ちていることが判明する。編集部とアルバイト学生を総動員して会社に泊まり込んで23万語を確認する作業は一ヶ月に及び、結果、他に欠落した見出し語はないことが分かるが、伝説となる。また、監修者である松本先生の手元には常にカードがあり、目新しい、耳新しいことば、ことばの使い方が書き留められる。用例採集カードは、数種類の既存の辞書と手作業で照合され、照合データは『大渡海』へ収録するか否かの判断材料のひとつとなる。
「保守的な」辞書記述
また、辞書の記述は慎重で保守的になりがちなことも指摘されている。華やかなファッション誌編集部から辞書編集部に異動になった岸辺みどりは「男」と「女」の語釈に異議を唱える。性別を男と女に二分すること、そして「女」は子を産む器官を有する方と、妊娠機能を定義の軸としていることは時代にそぐわないと主張し、多様性を認める語釈「男ではない方の性。または、そう自認しているもの。」を提案するが、主人公である主任の馬締光也に「早計にすぎる」と言われてしまう(p. 199)。辞書はある時代のことばの在り方を反映するものであるが、と同時に、ひとたび辞書に反映されると、その記録は規範性を帯びる。基本的概念の解釈についてはより慎重な判断が要され、結果、様子見に終わることも多いだろう。
編纂者の「情熱」
地味で保守的と、あまり魅力的に映らない辞書の世界だが、そこには編纂者たちのことばへの、辞書編纂への情熱がある。「あがる」と「のぼる」の違いが気になる馬締は、想いを寄せる香具矢とのデートに「天にものぼる気持ち」になるも、その途端に思考は「のぼる」の意味分析に支配される。そして、そんな馬締の『大渡海』への情熱が、辞書編集部に居場所を見いだせなかった西岡にも岸辺にも伝染していく。三浦氏はインタビューで、業にとらわれざるをえない人間に興味を引かれ、『舟を編む』では、辞書作りに取り憑かれた人の話を「人間の生き方の理想像として書いた」と言っている[1]。
辞書編纂者の「職人魂」
数多くの英和・和英辞典を編纂された故小島義郎早稲田大学名誉教授は、辞書作りは職人芸であると言っている。「使いやすい、実用的な辞書を作ることは、使いやすい手になじむ染物や陶磁器を作ることと同じなんです。とにかく使い勝手がよくなければだめです。」「ものを作るに当たっては今までにないアイディアを盛り込む必要はありますね。長年の経験と勘とそれに閃きでもって使い勝手のよい、きれいに見える、よくまとまった作品を作らなければなりません。何はともあれ職人芸としての仕事ですから、作品がきれいに見えなくてはなりません。ほかの道具や食器類と同じですよ。」[2]
科学技術やコーパス言語学が発達するに従って、記述の客観性や一貫性が高められるも、辞書の個性が失われていくように見える現在の英語辞書に私は興味を持てなくなっていた。しかし、『舟を編む』には私が憧れを抱いた辞書職人たちの魂が感じられ、辞書に対する新たな興味が生まれた。多くの読者を魅了したのも、この作り手の魂なのではないだろうか。
最後に、今年出版された飯間浩明著『辞書を編む』(光文社新書)を紹介して終わりたい。三浦しをん氏が帯文を寄せる本書は、『三省堂国語辞典』(サンコク)の編纂者によりサンコクの編み方がお茶の間語りで紹介されている。歴代の辞書職人たちの魂が感じられるお薦めの一冊である。
参考文献
- ^ 「巻頭インタビュー 作家三浦しをんさん」Sanseido World-Wise Web.
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/interview_miura/index.html
- ^作品としての辞書研究会編、2004年、『英語辞書の世界』p. 201