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阿部 成樹

阿部 成樹 【略歴

流れない美術史:アンリ・フォシヨンの思索の現代性

阿部 成樹/中央大学文学部教授
専門分野 美学・美術史

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大河としての歴史?

 普通歴史といえば、過去から現代へと一本の川のように流れていくものだとイメージされるだろう。そして歴史の一分野である美術史もまた、古代から中世、近代から現代へと移り変わってきたものだと考えられている。もし美術史の知識がある方なら、ロマネスクからゴシックへ、ルネサンスからバロックへという「様式」の歩みを思い浮かべられることだろう。邦訳されて日本でも多くの読者を得ているH.W.ジャンソンやE.H.ゴンブリッチの西洋美術史が、まるで大河小説のような悠々たる流れを感じさせるのもむべなるかなである。この「大きな物語」としての美術史が、美術を愛好するわれわれにとって大きな歓びのもとであることは間違いない。

 さてここに、そのような美術史のイメージに異議を唱え続けた美術史家がいる。第2次大戦のさなかに没したフランスの美術史家、アンリ・フォシヨンである。彼は1881年にフランス東部の古都ディジョンに生まれ、1943年に亡命先のアメリカで世を去るまでに、リヨン大学、パリ大学、そしてイェール大学で教鞭をとるとともに、ルネサンス以来の高等研究機関として知られるコレージュ・ド・フランス教授も務めた。その主な業績は西欧中世美術史に捧げられているが、同時に近代美術史から遠く東アジア、日本の藝術まで視野に収めた、スケールの大きな学風を持つ存在でもある。

 私はこの美術史家の自在な思索に魅力を感じ、2004年に彼の美術と美術史をめぐる試論『かたちの生命』(ちくま学芸文庫)の邦訳を上梓して以来、いくつかの論考を発表してきた。昨年は西洋美術館における国際シンポジウム(『時の作用と美学』、2012年4月15日)に招かれて、その時間をめぐる考察の一端を取り上げた。以下は、「変容の地平──アンリ・フォシヨンの思索から」と題する拙論の大まかな内容である。

古層としての「流れない時間」

 私たちが日々生きていく中で流れていく時間。それが決して流れ去り、消え去るものでないことは自明であろう。私は、記憶のことを言っているのである。そして記憶は、時おり思いがけない瞬間に忘却の渕から甦ることがある。それが決して特殊な経験ではないことは、多くの文学者がそうした体験について語っていることからも分かる。例えば三島由紀夫は、生まれて初めて訪ねたリオ・デ・ジャネイロの町を見て、それを少年時代に夢想した町と重ね合わせ、現実と記憶とが同等の重みを持つことに思い至る(『アポロの杯』1952年)。彼は眼前のリオの町が、記憶すなわち過去の作用によって変容されるという体験をしたのだが、それは同時に、時の流れによって自らも変わっていかざるを得ない、という悲痛な認識をもはらむものであった。ここには、時と記憶の中を生きる人間の、普遍的現実がある。過去は、決して消え去りはしない。

 したがって現実に過去を重ね合わせ、そこに時の作用の痕跡を見るのは、何も文学者の特権ではない。シャルル・マルヴィル、ウージェーヌ・アジェから荒木経惟に至る写真家たちが繰り返し撮影する廃墟もまた、そのような人間的現実をまざまざと感じさせてくれるだろう。港千尋は、山塊という不動の象徴たるものを、スケールの大きな時の作用──それは通常、数万年、数十万年に渡るだろう──の形象化として印象的に捉えている(『瞬間の山 形態創出と聖性』インスクリプト、2001年)。時と変容とは、切り離すことができない。

 さて、アンリ・フォシヨンは、美術史家として、美術作品を常に時の地平において捉えていた。時の地平におくとは、それが常に過去をはらみ、未来へとつながる変容の過程にあるものとして受け止めるということである。美術作品は年表の上では、確かにひとつの点でしかない。だが生きた存在としての作品は、水面下で常に過去とつながり、それまでに流れた時の痕跡をその形象にとどめているというのである。

 そうした過去とのつながりを、彼は時に大胆なかたちで主張した。例えば1941年に書かれた論文「先史時代と中世」では、間に数千年の隔たりをはさむふたつの歴史上の時代をいともやすやすと結びつけて論じている。フォシヨンによれば、歴史とは地層のような構造を持っている。地層は最下部の古層から最上部の表層まで多くの層が折り重なってできているが、通常露頭していない古層といえども消え去ったわけではない。同じように歴史上の古代もまた、集合的意識あるいは個人の無意識の中にいわば古層として存在し続け、時として表層の歴史に深部から影響を及ぼしている。このように、歴史には短期的な変化と長期的持続が存在するという考え方は、ちょうど同じ頃フランスで形成されつつあった新しい歴史学──のちにアナール派の歴史学と呼ばれる──に近いものである。

美術は過去を記憶する

フランボワイヤン式聖堂の例。前面に背向S字曲線の装飾モチーフが見られる。
サン=マクルー聖堂、ルーアン(筆者撮影)

 このように過去が消え去らず、また歴史にはゆっくり流れる時間と目に見えて変化していく時間とが同居していると考えると、美術の歴史には新しい地平が開けてくる。例えばフォシヨンは、ゴシック末期の画家ヨアヒム・パティニール(1480頃-1524)などが好んで描く、こね上げられまた切断されたような奇怪な岩石群を、先史時代の巨石文化と重ね合わせてみせる。それは通常の実証的な手続きによってふたつを結びつけているわけではなく、むしろそうしたアプローチでは語り得ない、文化的表現に通底する何かを捉えようとする試みである。

 もっと印象的な過去の再現は、ゴシック末期のフランボワイヤン様式に見られる。華麗な装飾性で知られるこの建築様式の特質は、S字型曲線の複雑な絡み合いなのだが、彼をそれを、大胆にも鉄器時代の装飾意匠に結びつけるのだ。とりわけブリテン島の装飾伝統に伏流して生き延びていくこのかたちの生命が、いわば覚醒したのがフランボワイヤン様式の聖堂建築というわけなのである。

 過去から現在へとただ一方向的に流れていくのではなく、豊かな過去の記憶のもとに花開くものとして美術作品を見るということ。フォシヨンの美術史は無味乾燥な年表形式から美術を救い出し、われわれの生の現実に美術作品の生を近づける。そこには、豊かな可能性が包蔵されていると思うのである。

阿部 成樹(あべ・しげき)/中央大学文学部教授
専門分野 美学・美術史
1962年京都市生まれ。
1985年東北大学文学部卒業。
1989-93年、フランス政府給費留学生。
1994年東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了、東北大学文学部助手。
1996年山形大学助教授。同教授を経て、2011年より中央大学文学部教授。
パリ大学美術史学博士。
研究テーマは、ダヴィッド、アングルを中心とするフランス新古典主義美術。および、アンリ・フォシヨンの美術史学の再検討。
訳書にH.フォシヨン『かたちの生命』(筑摩書房)、A.シャステル『ルネサンスの神話』(平凡社)、J.ラコスト『芸術哲学入門』(白水社)などがある。
阿部成樹ゼミサイト:http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~abes/arthistory/新規ウインドウ