Chuo Online

  • トップ
  • オピニオン
  • 研究
  • 教育
  • 人‐かお
  • RSS
  • ENGLISH

トップ>オピニオン>「万里の長城」を行き交う人々

オピニオン一覧

川越 泰博

川越 泰博 【略歴

「万里の長城」を行き交う人々

川越 泰博/中央大学文学部教授
専門分野 中国近世史

本ページの英語版はこちら

「万里の長城」の距離

 ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、新・世界七不思議にも選ばれている中国の「万里の長城」は、その東端は河北省山海関、西端は甘粛省嘉峪関というのが従来の認識であった。地図上の距離は2,700kmであるが、起伏や二重三重になったところを考慮すると、5,000kmにも達するので、一万里という数字は決して荒唐無稽のものではなかった。度量衡の制度では日本が長里を用いるのに対して中国は短里で、長城が完成をみた明代の一里は559.8mであったから、万里は5,598kmになるのである。

 ところが、2009年4月18日、中国国家文物局は東端を遼寧省虎山、西端を甘粛省嘉峪関とし、その延長距離は8,851.8kmと発表した。さらに2011年6月5日には総延長を従来の二倍以上の21,196.18kmと発表した。

 あらたに東端とした虎山長城は、鴨緑江を挟んで北朝鮮新義州の対岸に位置する丹東市にある。従来の山海関の以東には、明朝が遼東辺牆を、清朝が柳条辺牆を作ったが、中国国家文物局はそれらも取り込み、総延長を大幅に伸ばしたのである。その結果、「万里の長城」という名称と距離とは全く乖離してしまった。

「万里の長城」は内と外を結ぶ舞台

 長城の造築といえば秦の始皇帝が有名であるが、造築はそれより早く春秋戦国時代に始まり、明代になって完成をみた。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われ、北方民族に対する堅固な城壁と思われている。たしかに明代には長城を防衛するために沿線に厖大な駐屯軍を置き、区域を分けて防禦を分担させ、長城を横切る交通の要地には雁門関・居庸関・紫荊関・古北口・張家口等堅固な城壁で囲んだ関城を設けた。しかしながら、これらの辺関は、空間的には長城の隙間であった。

 その隙間を通して内と外が連結することによって、内と外の交通が開かれ、交流・交渉の舞台(アリーナ)となった。異民族・異文化の交流・融合・摩擦の中で共生(たとえば交易)と相克(たとえば戦争)が起きたのである。

 明朝が中国を統治した時代、モンゴル高原においては最初はオイラトが、そのあとはタタールが興亡した。正統14年(1449)の土木の変、嘉靖29年(1550)の庚戌の変では、ともに辺関が破られて国都北京が包囲され、北京市民に衝撃を与えたが、通常は毎年朝貢使節が長城内に入って北京との間を往還したのである。使節団の残留組は長城内で正使一行の戻りを待つ間、中国人との交易に務め、辺関周辺は賑わった。交易では中国の禁制品まで密かに売買された。朝貢使節が帰国するときは明では護衛団を付けた。

 このように長城を介してモンゴルとの交流は頻繁に行われた。その一方、夜不収と呼ばれる明のスパイ達はその任務遂行のために長城を常時往来した。また、罪を犯した人々、邪教と宗教弾圧された人々、借金を踏み倒して夜逃げした人々等々、多くの人達もまたモンゴルに逃げ込むために密かに長城を通り抜けた。運良くモンゴルに逃げ込んだ人々は板升と呼ばれる漢人聚落に住み、モンゴルの政治経済に貢献した。

「万里の長城」を彷徨う皇帝

 中国の歴史上、国都の朝廷を離れて一年間長城を彷徨った皇帝が一人いる。それは、正統14年(1449)8月15日に起きた土木の変においてオイラト軍の捕虜となった明英宗である。

 同年7月11日、オイラト軍を中核とするモンゴル勢が明辺に侵攻してくると、その日のうちに親征の議が起こり、16日には英宗の親征軍は都を進発した。行糧は一ヶ月分、兵器は80万を用意した大軍であった。英宗は当時関係が悪化の一途を辿るモンゴルに対して大軍をもって嶊破しようとしたが、逆に8月15日に土木堡において撃破され、英宗は捕虜となった。これがいわゆる土木の変である。

 モンゴル軍全体を統率するオイラトのエセンは、有利な条件で英宗を中国に送還しようと交渉に及んだ。ところが、英宗の異母弟を新皇帝(景泰帝)に擁立した明朝は、英宗のいまさらの帰還を望まず、交渉は進捗しなかった。

 それに業を煮やしたエセンと麾下の軍勢は英宗を擁して長城辺関の居庸関、紫荊関等を突破して北京に侵攻してきたが、それでも明朝は英宗の帰還を認めなかった。見捨てられた英宗はそれから一年の間、エセン軍とともに長城周辺を彷徨った。

 ようやく和議が成って帰京したのは、奇しくも捕虜となった日と同じ8月15日のことであった。喜びにあふれて帰京したものの、英宗を待ち受けていたのは南宮に幽閉という長い苦難の日々であった。しかし、長城を彷徨う間に人間が錬磨された英宗は幽閉生活を耐え抜き、その七年後、奇跡的な復位を遂げ、再び玉座を手にしたのであった。

川越 泰博(かわごえ・やすひろ)/中央大学文学部教授
専門分野 中国近世史
1946年、宮崎県日南市に生まれる。1976年、中央大学大学院文学研究科博士課程単位取得。中央大学文学部専任講師、助教授を経て、1991年より教授(大学院併任)。博士(史学)。著書に、『中国典籍研究』(国書刊行会、1978年)、『明代建文朝史の研究』(汲古書院、1997年)、『明代異国情報の研究』(汲古書院、1999年)、『明代中国の軍制と政治』(国書刊行会、2001年)、『明代中国の疑獄事件-藍玉の獄と連座の人々』(風響社、2002年)、『明代長城の群像』(汲古書院、2003年)、『モンゴルに拉致された中国皇帝-明英宗の数奇なる運命』(研文出版、2003年)他多数。

石沢良昭・関根秋雄・川越泰博訳(J.オーボワイエ、オフィスドリーブル原著)『アジア・美の様式〈上〉―インド・中国・朝鮮・日本編』連合出版、1989年
川越泰博『明代建文朝史の研究』(汲古叢書12)汲古書院、1997年
川越泰博『明代異国情報の研究』汲古書院、1999年
川越泰博『明代中国の軍制と政治』国書刊行会、2001年
川越泰博『明代中国の疑獄事件 藍玉の獄と連座の人々』風響社、2002年
川越泰博『四字熟語歴史漫筆』(あじあブックス)大修館書店、2002年
川越泰博『明代長城の群像』汲古書院、2003年
川越泰博『モンゴルに拉致された中国皇帝 明英宗の数奇なる運命』研文出版、2003年
川越泰博『明史』(中国古典新書続編)明徳出版、2004年
川越泰博編『明清史論集―中央大学川越研究室二十周年記念』国書刊行会、2004年
川越泰博『漢字の生態学―日本語を鍛える漢字力のために』彩流社、2005年