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丹治 竜郎

丹治 竜郎 【略歴

マーガレット・サッチャーの死と言論の自由

丹治 竜郎/中央大学文学部教授
専門分野 イギリス小説

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マーガレット・サッチャーの死

 2013年4月8日、ロンドンのピカディリーにある超高級ホテルのリッツで、英国の元首相マーガレット・サッチャーが脳卒中を起こし、死去した。サッチャーは食料品店主の娘として生まれ、オックスフォード大学で化学を学んだあと一般企業に就職したが、結婚後に法律の勉強を始め弁護士の資格を取得、政界に入り、1979年保守党の党首として選挙で勝利を収め、英国初の女性首相に就任した。1990年に首相を退任するまでのあいだに彼女が実施した政策はサッチャリズムと呼ばれるが、民営化や自由競争などを柱とするその政策については、現在も毀誉褒貶相半ばすることは各種のメディアによって日本にも伝えられている。私は文学研究者なので、ここでサッチャリズムを政治的あるいは経済的な見地から論じることはしない。私の興味を引くのは、サーチャーの死が改めて印象づけた英国における言論の自由とそれを可能にしている条件である。

サッチャーに対する称賛と批判

 4月10日、英国の国会で保守党のキャメロン首相がサッチャーを称賛する演説を行ったあと、アカデミー主演女優賞を二度受賞した女優で、現在労働党の国会議員であるグレンダ・ジャクソンが、サッチャーは貪欲、利己主義、弱者の切り捨てという悪徳を美徳に変えてしまったという痛烈な批判を展開した。保守党議員のやじをものともせず、堂々と自説を述べるジャクソンの姿には、英国における言論の自由の偉大な伝統が映し出されているように思えた。重要なのは、ジャクソンの批判が決してサッチャーの私的な側面に向けられたものではなく、あくまでも彼女の公人としての側面に向けられたものであることだ。人間のプライヴェートな部分とパブリックな部分とを明確に分けるこの思考法は、私が研究対象にしている小説にも実は深くかかわるのである。

プライヴァシーと小説

 イアン・ワットという研究者は、18世紀のイギリスにおいて個人が私室を持つようになったことと小説というジャンルの誕生の関係を論じている。プライヴァシーという意識が高まり、個人の私的な生活がおたがいに見えにくいものになったとき、個人の私的な生活をフィクションとして描く小説が人気の文学ジャンルとなったのだ。たとえば、18世紀イギリスにおけるベスト・セラー小説の一つであるサミュエル・リチャードソン作の『パメラ』は、屋敷の主人に誘惑される女中パメラが両親宛てに書いた手紙からなる作品だが、それを読む読者が若い女性のプライヴァシーを覗き見るひそかな喜びを感じていたであろうことは想像に難くない。事態を複雑にしているのは、『パメラ』があたかも実在の人物が残した書簡をもとにして書かれたかのような体裁をとったフィクションであることだ。つまり、読者は実在の人物のプライヴァシーを窃視していると錯覚し、小説に熱中したのである。プライヴァシーの確立がいかにプライヴァシーを知りたいという強い欲望を生み出したかがわかるというものだ。

プライヴェートな領域とパブリックな領域

 英国だけではなく西洋諸国においては、ある人間の私人としての行為(犯罪行為は除くが)が、日本におけるほど公人としての資格に影響を与えない。ある国では大統領に隠し子がいることが判明しても彼はそのまま大統領でいつづけたし、別の国では大統領の不倫が暴露されても、彼が大統領職を追われることはなかった。世界中どこでも、人々は有名人のプライヴァシーに強い関心をもっており、その関心を満足させてくれる扇情的なメディアにも事欠かない。ただ、西洋諸国では個人のプライヴァシーにかかわる情報がその人のパブリックな側面から切り離されているために、プライヴァシーであるからと言って、安易に言論の自由を抑圧する事態が生じにくいのである(リチャード・セネットによれば、西洋でも事態は変わってきているのだが)。日本においては、プライヴェートな領域とパブリックな領域の区別があいまいなため、プライヴァシーの権利が言論の自由を無際限に侵食する危険性が高いのだ。日本では意見を否定されると人間性を否定されたように思ってしまう人が多いことも、プライヴェートな領域とパブリックな領域の区別のあいまいさに由来するだろう(だから学生は授業中あまり意見を言いたがらないのである)。

個人的な苦悩と行動に対する責任

 プライヴェートな領域とパブリックな領域の区分は、個人的な人間性が人のパブリックな活動や発言の口実にならないことも意味する。メリル・ストリープがサッチャーを演じた映画はサッチャーの個人的な苦悩を描き、彼女の人間性を強調する。映画が伝えたいことは、サッチャーもふつうの人と同じように悩み苦しむ人だったということだろう。だが、スラヴォイ・ジジェクをふまえて言えば、サッチャーであれ、ほかの歴史上の人物であれ、行動する際にどれほど苦悩しようとも、その行動がもたらす結果から本人が免罪されることはないのだ。グレンダ・ジャクソンのサッチャー批判はあくまでもサッチャーの政策に向けられている点で健全な批判なのである。同時に忘れてはならないのは、こうした政治家の公人としての側面への批判が、プライヴェートな領域とパブリックな領域の区分を前提にしていることだ。この区分のおかげでたんなる個人批判ではない建設的な意見表明が可能になることは、どれほど強調しても強調しすぎることはない。

丹治 竜郎(たんじ・たつろう)/中央大学文学部教授
専門分野 イギリス小説
神奈川県出身。1964年生まれ。1986年東京大学文学部英語英米文学専修課程卒業。1989年東京大学大学院人文科学研究科英語英文学専攻修士課程修了(文学修士)。1992年東京大学大学院人文科学研究科英語英文学専攻博士課程満期退学。1992年に横浜市立大学商学部に専任講師として赴任、1993年には同学部助教授となった。1999年4月から中央大学文学部助教授、2002年から同学部教授をつとめている。主な研究対象は20世紀のイギリス小説であるが、イギリスの映画や音楽にも詳しい。近著に『第二次世界大戦後のイギリス小説 ベケットからウィンターソンまで』(共著)(中央大学出版部)がある。