中央大学中央図書館には、日本の大学では数少ない「国際機関資料室」が併設されており、国連をはじめとする諸々の国際機関が刊行する多くの文献が所蔵されている。そのPRを兼ねて、ここでは、ユネスコから1996年に出版された二巻本のリビア考古学調査報告書、『砂漠を耕す』を紹介したい。原タイトルはつぎのとおりである。 G.Barker, et al., Farming the Desert: the UNESCO Libyan Valleys Archaeological Survey。
ローマ時代の遺跡
紀元前、現在のチュニジアを中心にフェニキア人の建国したカルタゴが繁栄していた。カルタゴはリビアの地中海沿岸部に、トリポリタニアと総称される三つの都市を建設した。そのうちのひとつは今の首都、トリポリである。カルタゴは、ローマとの三次にわたるポエニ戦争で完敗したものの、ローマ帝国の支配下で復興し、エジプトと並んで帝都ローマのもっとも重要な「穀物倉」となった。トリポリタニアもローマの支配下に入り、ローマ文明が栄えた。その遺跡であるサブラタの円形劇場、それからレプティス・マグナの都市遺跡はよく知られており、ともにユネスコの世界遺産に登録されている。
リビア人のための考古学
しかし、『砂漠を耕す』はローマ遺跡の調査報告書ではないのだ。序文には、つぎのように書かれている。
1978年、リビアの指導者、カダフィー大佐は、ある重要な演説においてこう述べた。「考古学の研究をおこなうのであれば、少なくとも今日の人々の必要に関わるものでなければならない。」とくに大佐が挙げたのは、亜砂漠地帯で目にする多数の古代の住居跡であった。
「亜砂漠地帯」とは、地中海沿岸部とサハラ砂漠との中間に位置する乾燥地帯のことで、今日ではほとんど無人の地となっている。しかし、そこに点在する遺跡群からは、かつて相当規模の農業が営まれていたことは容易に想像できた。しかも、その担い手は明らかに、ギリシャ・ローマ側からは「リビア人」と呼ばれた、この国の先住民だった。カダフィー大佐の言わんとするところは、リビアのあるべき考古学は、リビア人自身の過去を掘り起こし、さらに国内の農業開発、すなわち「砂漠を緑に」の政策に貢献するものでなければならない、ということであった。今となっては誰も省みることのないカダフィー大佐の民族主義の一端を伺うことができよう。
この演説をうけてリビア文化遺産局はユネスコに支援を求め、その結果、イギリスとフランスの考古学者の協力をえて大規模なフィールドワークが実施された。本書はそのうちの「イギリス・リビア班」の報告書である。
オリーブ油の生産
『砂漠を耕す』の調査報告をごく大雑把にまとめてみれば、つぎのようになる。ローマ属州時代、リビアの亜砂漠地帯においてはオリーブの樹が大々的に植林され、さらにオリーブの実から油を搾りとる作業も同じ地域でおこなわれた。オリーブ油は地中海世界の生活必需品であるが、推定される生産量は当時のリビア社会の需要をはるかにこえており、その相当部分は輸出用だったと推測される。しかし、今日でも亜砂漠地帯は、その名前からも容易に想像できるように、砂漠に限りなく近い農業の限界地帯である。では、どのようにして水を確保したのか。
亜砂漠地帯の後背地には高地がそびえているが、そこに降った雨水が流れ落ちると、いつもは干上がっている「涸川」(図1)が一変して、図2のように洪水状態になる。それを灌漑設備によって取水するのである。「拡水」と呼ばれるものである。トリポリタニアに居住する、フェニキア人とリビア人との血が混じった上層階級は、国際市場での輸出販売を目指して、灌漑設備やオリーブ油の製造所の建設に積極的に投資したのであった。図3は当時のオリーブ油の絞り器の一部である。また、図4は油搾り作業の再現図である。
図1:涸川
図2:洪水状態になった涸川
図3:当時のオリーブ油の絞り器の一部
図4:オリーブ油の絞り作業の再現図
出典:いずれも、G.Barker, et al., Farming the Desert: the UNESCO Libyan Valleys Archaeological Survey, 1996.
しかし、やがてローマ帝国は危機に陥り、地中海の経済活動全体が収縮に向かい、リビアの亜砂漠地帯におけるオリーブ油生産も急速に衰退していった。そして、この点がいちばん重要なのだが、『砂漠を耕す』は、この乾燥地帯での農業を経済的に採算がとれるものにした灌漑技術はもともとリビア人が開発していたのであり、それがローマ支配の時代に全面開花して大量のオリーブ油を生産することが可能になったのだ、と結論する。
カダフィー大佐の夢
カダフィー大佐の長期の独裁政治を支えたのは、周知のごとくリビアの豊かな石油資源であった。また、その無残な失脚にも、石油資源をめぐる国内諸勢力の対立、さらに、おそらく国際石油資本の思惑が絡んでいた。ローマ支配の時代の内陸乾燥地帯における大規模な開発の中枢にあったのも「油」だった。しかも、その当時の「グローバル化」に深くかかわるものだった。カダフィー大佐がこの大規模な考古学調査に託したのは、リビア人自身の土着の技術にしっかりと根ざし、国際経済の動向に徒に左右されることがない、健全な国民経済の発展という夢だったのかもしれない。