まだ一般には認知されていないだろうが、高校生による英語ディベート活動が「爆発的に」とでもいうべきスピードで普及しつつある。
全国高校生英語ディベート大会
さる2012年12月、七回目となる全国高校生英語ディベート大会が開催された。会場である千葉県立幕張総合高校には、北海道から沖縄まで、実に33都道府県から代表校64校が集まり熱戦を繰り広げていた。全国大会は会場・運営の制約のため64校に絞っているが、実際には32もの都道府県で事前に大会が開かれ代表を選んでいる。各地の大会に参加している学校の総数は、約250校にもなる。
私は、この全国大会の審査委員長を務め、第一回大会の企画段階から運営に関わるという希有の経験をさせていだいてきた。初回は、たかだか34校が17都道府県から集まったに過ぎなかった。そこから6年程度で、7倍ほどに成長したことになる。
広がる英語ディベートのネットワーク
全国大会というと、いかにも「お上」が作ったと錯覚されるかもしれないが、実は有志によって手作り的にスタートしたものである。後にこの有志集団は、全国高校英語ディベート連盟 (HEnDA)と名乗ることになるが、当初から組織があった訳ではない。
全国大会が始まる前までは、高校生のディベート大会というと、長野や埼玉などの英語教員の県内ネットワークが主催する先駆的な県大会にとどまっていた。それらのネットワークを一挙につなぎ、全国大会を実現させる上では、カリスマ的な個人の力も大きい。とりわけ岐阜県の高山西高校(当時の所属)の宮川純一先生は、各地を行脚し、各地のカリスマ教員たちを次々と巻き込んでいき、ネットワークを広げる原動力となっていた。
その意味ではこの全国大会は、教員たちによる「下から」の教育改革運動ともいえるが、教員だけでなく、設立当初より特別協賛となっていたベネッセ・コーポレーションの金銭的・人的な支援(全国的な営業・広報網)なども、参加校の裾野が急速に広がる上で欠かせない要素であった。
そしてネットワークの広がりにとっては、新学習指導要領で「討論の充実」がうたわれるようになったことなど、教育行政の役割も大きい。そもそも全国大会のきっかけになったのは、文部科学省のSELHiプログラムであり、高山西高校をはじめ、英語教育に熱心な高校が一同に集う場は、ネットワークの基礎を提供した。また県大会の無かった都道府県でディベート大会を開催する動きが広がっていく際には、各地の教育委員会などの支援は欠かせない。やはり産官学の全てのセクターを動員できるかどうかが、普及運動の成否の鍵の一つである。
教育ディベートの二つの競技形式
大人であっても英会話すらままならない。ましてや、日本語でディベートすることすら苦手と考える人も多い。英語ディベート活動への参入は容易ではないと考える先生方は今でも多い。
中央が決勝戦審査中の筆者
そこで全国高校生英語ディベート大会では、できるだけ多くの学校が参入できるよう、米国などの先行例を参照しつつ、大会ルールや試合形式などを慎重に設計した。
教育目的のディベートには大きくわけて二つの競技形式がある。一つは米国式の「ポリシー・ディベート」であり、ディベートで議論される論題が何ヶ月も前に発表され、事前に準備してきた上で対戦する形式である。もう一つは英国式の「パーラメンタリー・ディベート」であり、試合の数10分前に論題が発表され、ほぼ即興で議論を行う形式である。米国式では統計などの証拠などを用いて客観的に議論することが奨励されるのに対し、英国式では雄弁や分かりやすさが競われる。
英国式はルールも簡単で、準備の手間がかからないので一見すると初心者向けのように見える。だが即興で議論するのは実際にはネイティブであっても難しい。また英国式は審査基準・訓練法も確立されておらず、科学的・客観的な討論の練習には向かない。そのためかディベート教育の先進国である米国では、英国式でディベートする高校はほとんどない(ちなみに米国では高校ディベートの全国団体National Forensic Leagueが1925年に設立され、毎年のべ10万人近くがディベート大会に参加している)。
米国式では、試合前に幾つかの原稿は準備しておけるので、初心者といえども何も発言できないという事態は避けられる。論題は半年以上も前から公開され、同じ論題で県大会なども開催される。同じ論題について繰り返し議論するので、ステップアップがしやすい。実は米国式ディベートに新規参入するための障壁はさほど高くない。こうしたことを考慮し、全国大会で採用されたのも米国式である。
ディベート大会の設計
ところで米国式といっても、幾つもの変種がありうる。米国の大学ディベートでは、一部で過度にマニア化が進み、一般人には理解できない速度で専門用語を羅列する競技になっている。そこで全国大会を作るにあたっては、いわば「後発の強み」を活かし、極端な方向にならないように、様々な工夫を加えた。例えば、チーム競技としての性質を強め、四人で行う形式を新たに開発し、話者の役割についても限定を加えている。争点の数や、議論の種類などにも制限を設けている。
こうした工夫の効果は上がっており、多くの学校が参入できるようになっただけでなく、議論の質も驚くほど速いスピードで向上している。議論に規制を設けることは、一見すると自由な議論を阻害するように見えるが、議論の学習にあたっては、むしろ適度に自由(複雑性)が減らされていることが不可欠とさえ言える。
一般に競技形式でディベートを行うことは、生徒の自主的な学習への誘因(インセンティブ)となりうるが、それがゆきすぎると勝利至上主義が横行し、反則まがいの行為が横行するギスギスとした大会になりかねない。
それを未然に防止するため、当初より重視されてきたのは、“Make Friends”という大会理想の普及である。ディベートの勝負は手段に過ぎず、ディベート大会の本当の目標は、(教員も含め)参加者がみな大会を通して人間として成長することにある。こうした理想を徹底するため、「Make-Friends憲章」なるものを起草し、開会式では参加者全員が英語で朗詠する儀式を行っている。また手間暇かけて全員集合の写真撮影を行ったり、高校生全員が参加する懇親会を開いたりして、勝敗だけにこだわらない仕掛けをさまざまに設けている。
高校ディベート普及にあたっての大学の役割
大会の成長をみるに、これらの設計はいまのところ功を奏しつつあり、英語ディベートのネットワークは広がっている。だが、一過性の熱狂に終わらせず、日本に実用的な英語教育やディベート教育を定着させるためには、前述の通り、産官学、とりわけ大学の貢献すべき範囲はまだまだ大変多い。
米国の大学では、スピーチ・コミュニケーションや議論教育を専門とする講座がおかれ、専任の教授が学生のディベート能力を鍛え、将来のディベート指導者の育成にも力を注いでいる。ハーバード大学は、高校ディベート大会も開催しており、それは既に38回を数えると言う。昨年視察する機会があったが、大学キャンパスをフルに使って14もの部門を同時開催している全米でも有数の大会だそうである。将来のエリートをめざす高校生たちがいきいきと論戦を繰り広げていた。
日本の高校生たちも決して負けてはいない。全国大会での今年度の論題である「大学の9月入学」の是非について、大学教授が書いた記事などを “no proof”(根拠がない!)などと英語でズタズタに論破していく様は痛快そのものであった。
英語ディベートの普及は、日本の英語教育を革新する起爆剤になるにとどまらず、閉鎖的な日本社会の革新にもつながりうるのではないか、そんな気にすらさせられる。