トップ>オピニオン>コンテンツからコンテクストへ:コンテクストデザイン戦略の可能性
三浦 俊彦 【略歴】
三浦 俊彦/中央大学商学部教授
専門分野 マーケティング論、消費者行動論
昨年11月、研究仲間と『コンテクストデザイン戦略』(芙蓉書房出版)を刊行した。
そのコンセプトは、共編者の原田保多摩大学大学院教授の主張する「コンテンツからコンテクストへ」である。つまり、単品(コンテンツ)のデザインから、文脈(コンテクスト)のデザインへの移行である。
例えば、原田による米国ゼロックス社の例は大変興味深い。同社は、コピー機の機械的な不具合ごとに詳細な修理マニュアルを持っていたが、なかなか顧客が満足する修理サービスができなかった。何故なら、同じような不具合でも、顧客の使い方次第で原因は大きく異なり、表面的故障から修理方法を一義的に決めていたマニュアルはあまり役に立たなかったのである。そこで、機械的な不具合を修理するのではなく、「顧客と機械の相互関係」を修復することが重要と考え直し、同社の修理技術者のスローガンは「機械を直すな、顧客を直せ」になったと言う。つまり、修理活動とは、コピー機(コンテンツ)だけの修理ではなく、顧客と機械の関係(コンテクスト)の修理なのであり、そのコンテクストの視点が顧客の支持を集めたのであった。
実際、BtoBの現場では、もう10年以上、ソリューションという言葉がキーワードとなっているが、これはまさにコンテクストの考え方である。例えば、上記のゼロックス社もコピー機を販売しているが、それを単品で売っているわけではない。修理やメンテナンスはもちろんのこと、プリンター機能も付加し、全体をPCで管理することによって、「効率的なオフィス」という一つのソリューション(コンテクスト)を提供しているのである。先ほどのスローガンを言い換えるなら「機械を売るな、顧客との関係を売れ」ということである。
このようなコンテクストの考え方は、消費財ではさらに威力を発揮する。基本コンセプトは、単品(コンテンツ)で売るのではなく、ストーリー(世界観)やライフスタイルと言った文脈(コンテクスト)で売るということである。例えば、サントリー「伊右衛門」は、お茶単体(コンテンツ)としては他社のお茶と大きな違いはないかもしれない(もちろんサントリーとしては茶葉や水や製法にだわっていると言われるが、これは他社も努力している部分である)。それが、本木・宮沢の伊右衛門夫妻や京都福寿園の伝統、また竹筒パッケージなどから、「日本のお茶の伝統」という一つのストーリー(コンテクスト)を創り上げて、他社の競合品とまったく違う価値を消費者に提供している。消費者はお茶を買っているのではなく、日本のお茶の伝統というストーリー(世界観)を買っているのであり、それが成功につながっている。
またこれはアイデアの段階に過ぎないが、知り合いの貝印の人が言った「爽やかモーニング」というライフスタイル提案もまさにコンテクストである。貝印のカミソリは単品で売ろうとすると、シックとジレットという競合のツートップになかなか勝てない。それを単品で売るのではなく、そこにシェービング・ブラシやアフターシェーブ・ローション、さらに出勤前の気持ちを高める音楽などを加えて、一つの「爽やかモーニング」というコンテクストを創ることができたなら、消費者の大いなる支持を獲得するかもしれないのである。つまり、カミソリ(単品)を売るのでなく、爽やかモーニング(コンテクスト)を売る、ということである。
単品で売らず、コンテクストを創ることがいま必要なのであるが、このコンテクストの創り方には多様なものが考えられる。
例えば、明治が日本野菜ソムリエ協会などとコラボして行っている「チョコベジ」(チョコソースの鍋に野菜をつけて食べる;子供の野菜嫌いをなくすもの)は、翻訳のコンテクストデザインと捉えられる。フォンデュやチョコフォンデュの持つ、自分で作る、皆でわいわい楽しみながら食べる、というコンテクストを翻訳・翻案して、チョコソースに野菜をつけるという新たなコンテクストを創り上げて成功している。
また、AKB48は、過程のコンテクストデザインと捉えられる。昔のアイドルはデビュー時点である程度完成していたが、AKB48の場合は秋元康氏が「AKBは完成していない」と言うように、曲ごとのメンバーも確定しない中で多くの葛藤や悩みをファンと共有しながら成長していく。ファンは、CDを買って握手会に参加し、選抜総選挙で支援する中から共に成長していく。この成長の過程が大きなストーリー(コンテクスト)としてファンの心を掴んでいくのである。
コモディティ化(一次産品化;品質で差がない状態)の今日、単品(コンテンツ)の競争は、結局、値下げ競争に陥ってしまう。単品を組み合わせて、いかに顧客に支持されるコンテクスト(ストーリーやライフスタイル)を創造して行けるかが、いま問われている。