トップ>オピニオン>男子体操競技-歴史的プロフィールとロンドン2012を通して-
市場 俊之 【略歴】
市場 俊之/中央大学商学部教授
専門分野 スポーツ運動学・スポーツ史
今夏開催された第30回オリンピック・ロンドン大会は、日本にとって「オリンピック100周年」にあたる。1912年ストックホルム大会に初めて参加したのは、団長の嘉納治五郎(アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員)と監督の大森兵蔵、選手は陸上競技の三島弥彦と金栗四三であった。それから100年、日本は役員を含め519名の選手団を派遣し、金7、銀14、銅17、合計38個のメダルを獲得した。中央大学から3名の現役学生と2名のOBが参加した。今夏のロンドンでは、多くの感動ドラマがあったが、「判定の不可解さ」、「無気力」、「政治色」ほかが問題ともなった。
近代オリンピック第1回1896年アテネ大会から、途切れることなく実施されている伝統競技がいくつかある。男子体操競技はそのひとつである。日本の男子体操競技選手たちは、1932年ロサンゼルス大会に初出場し5位(5チーム参加で最下位!)だった。その後、先達たちのまさに血と汗の努力が実を結び、1960年代から20年間、日本は黄金期を築いた。そして今夏、世界中の注目を集めたことも記憶に新しい。ここでは、男子体操競技の制度や技術動向の歩みとロンドン2012の視聴を通して浮かび上がった事柄を述べたい。
男子体操競技は6種目(ゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒)である。しかし、1930年代までは、大会ごとに種目や数が異なっていた。例えば、平行棒や鉄棒では「力」と「振動」の2つの規定演技が課されたり、実施されない種目があったのである。また、昔の男子体操競技は、今日の陸上や水泳の種目、ロープクライミングなどを含む総合競技だった。1936年ベルリン大会以降、6種目が固定する。
1996年アトランタ大会まで、規定演技と自由演技があったのである。国際体操連盟が公示した規定演技をすべての選手が実施し、理想像に向けて熟練や精確という実施技術が評価されたのである。有効期間と選手の技術向上、少数の観客など諸事情で廃止された。
昔の体操競技は、芝生の広場や陸上競技場のフィールド、つまり野外で実施された。陸上や水泳の種目、ロープクライミングなどがなくなり、現行6種目に絞られるのと相俟って、室内競技となったのである。室内化と同時にポディウム(演技台)を作り、その上に器械を設置することも始まった。ポディウムはもとはといえば観客の見やすさのために考えられたのだが、器械の弾力性をより高める効果もある。
1948年ロンドン大会で問題が生じた。ひとつは、採点の混乱であった。なぜなら、統一された評価基準がまだなかったからである。このことを受けて1949年に初めて「採点規則」がつくられ、翌年の世界選手権大会から適用されたのである。その後、採点規則は定期的に改定されている。1976年モントリオール大会の女子体操競技において「10点(ルーマニアのコマネチ選手)」が出た。当時は満点が10点で、「9,80」や「9,90」が高得点だった。2008年北京大会前から、採点方式が大きく変更された。加算方式のDスコア(価値点)と減点方式によるEスコア(実施点)の合計が得点とされるようになり、上限がなくなっている。
もうひとつの問題は、器械であった。運営側が提供した器械だったり、参加チームが持参した器械だったりと試合の度に使用される器械もばらばらだったのである。採点規則に遅れたが1956年に規格が統一された。跳馬は2001年から現在の形に変更されたが、その他の器械は外見的には大きく変わっていない。しかしながら、弾力性をより高める方向で改良され続けている。
第1回大会(1896年アテネ)から1930年代までに男子体操競技は、「基礎づけ」から「リズム化(ダイナミック化)」に向かう。何回かのオリンピックおよび世界選手権大会を経て、先ずは体操競技についての共通認識が形成され、それがヨーロッパから世界に広まった。次いで1930年代に入り、今日のリズミカルでダイナミックな体操競技が芽吹いた。しかしながら、第2次世界大戦により、体操競技の発達も10数年間停止した。戦後、制度の整備と併せ、1950年代後半までに戦前の技術が復興した。1960年代から1970年代までは外見的に安定していた勢力図(日本の黄金期)のために、技術動向はモノトニー(単調)と言い表された。その後、今日一般化した高度な技の数々がソヴィエト連邦(当時)や他のヨーロッパ諸国の選手によって演じられ、それが世界的に定着している。
チーム内の事情はわからないが、中国は現行ルールの下で団体戦を戦う術を教えてくれた。事実上、内村選手に依存度が極めて高い日本チームは、その内村選手の好不調に大きく影響された。そして他の選手にも失敗が多発した。「演技を何とかまとめる」という中国選手の執念は、高いDスコアを認めさせながら少ない減点のEスコアを確保するという採点規則に沿った戦略・戦術に他ならない。これは奇策ではなく、正攻法である。オリンピックという大舞台で「できた」のか「できなかった」のかが、そこに至るまでの経過の結果だとすれば、その差は非常に大きい。生中継を見ながら、「団体で金メダル」を目標に日夜トレーニングしている間のどこかで何かがほんの僅かにズレ始め、本番でついに脱線したのではないかと感じた。
着地がきれいに決まったのは跳馬だけだった内村選手だが、世界選手権3連覇中の「オールラウンダー」の実力を示した。言い換えれば、団体戦ではできなかった採点規則に沿ったオーソドックスな戦い方が個人総合戦ではできたということである。まだいつもの調子ではないように見て取れたが、全6種目をまとめたのは彼だけだった。
オリンピック終了後に公開される新しい採点規則が次の2016年リオ・デ・ジャネイロ大会への指針となる。基本的方針がこれまで同様であれば、「高い難度」と「高い実施力」が求められる。コーチと選手たちは、4年後を見据えながら新ルールへ速やかに対応していくだろう。審判に関しては、価値点を誤りなく算出すること、「運動技術の質的な差」を実施点に適正に反映させることがこれまで以上に厳格かつ慎重に行なわれなければならない。
また、インフラもますます充実される必要がある。旧東ヨーロッパ諸国が行なっていた「ステートアマ」を今日のスポーツ先進国は継承したという批判的な意見はさておき、国立スポーツ科学センター(JISS)やナショナルトレーニングセンター(NTC)の重要度はますます大きくなる。練習環境の確保や科学分析のみならず、食事や日常生活までも含めた手厚い総合的支援の基地である。
だがしかし、インフラや科学が充分整備されただけでは充分ではない。むしろ個人の姿勢と意識があらためて重要度を増すだろう。筋力トレーニングでも技術トレーニングでも、時間と回数に還元される「量」が必要とされる。それがすべてだろうか?否。物差しではかりきれないものがある。前回の試行がどうだったのかとふり返り、それを基に次回どうしようかと投企する。このことを無限に繰り返し練習し、実際に必要な筋力を獲得し、動きというか個人技術を洗練化するのである。すなわち、回数や時間をかけるという一見量的な作業は、実は頭脳を通して身体の使い方や動き方の質を高める高度に知的な行為でもある。日本人、いわんや男子体操競技陣は、このような分野に長けている。「神業」は、選手というひとりの人間の全身全霊をかけた地道な活動の積み重ねによって具現される「人間業」なのである。