トップ>オピニオン>大津いじめ事件から考えること―リスク社会と応答の責任―
古賀 正義 【略歴】
古賀 正義/中央大学文学部教授
専門分野 教育社会学
大津市で起きたいじめ事件が大きな波紋を呼んでいる。昨年10月飛び降り自殺した中学2年生が、数名の友人から暴行や金銭強要など激しいいじめを受けていたことが発覚し、その後の学校側によるアンケート調査によって級友からいじめの事実が証言されたにもかかわらず、教師も教育委員会も適切な措置を取らなかったというのである。
1994年の大河内君事件と共通点が多く、もはやいじめではなく、「少年犯罪」であるという指摘があり、ネット上では加害者バッシングも相次ぐ。警察の介入が適切だったかは別に、人命を損なう暴力事件を放置した教育現場の罪は重いといえる。しかしながらメディア報道の矛先とは異なり、当事者の不適切な対応を責めるよりむしろ、リスク社会の中でいじめ事件であるか否かの判定や説明責任に奔走し、学校で共に生きる子どもの姿に応答する責任を見失った教育現場の実情にこそ本質的な問題があると思えてくる。
まず注目すべきは、学校関係者や教育委員会のいじめ問題への洞察力の乏しさや事件の隠ぺい体質が大きく取り上げられた点である。教育の専門家でありながら、教師らはいじめを見抜き対処する技量をもちえなかったのか。教育長が再三否定したように、いじめとしての予見可能性は持ちえなかったのか、という深い疑念である。
これまでにもいじめ理解の指針や方法は、文科省からたびたび提案されてきた。2006年には相次いで自死事件が起き、子ども自身の申告による「認知件数」へと調査方法が改められ、いじめの定義も「一定の人間関係のある者から、心理的物理的攻撃を受けたことにより精神的苦痛を感じているもの」へと変えられた。たとえ一過性で一方的でなくとも「いじめ」と認めるべきであり、いじめ概念を拡張することに転換したのである。
2010年には大臣通知によって、今回問題視された実態把握のアンケート調査が推奨され、取組みの点検や校内研修の必要性も強調された。次々と説明責任として果たすべき学校のいじめ対処法が示されたのであり、それは今回の学校でも実践されてきたようにみえる。
いじめ事件の難しさは、加害者があるいは被害者さえもが、簡単に特定できないことにある。校内暴力が生徒の学校権力への反抗と理解できるのに対して、いじめは学級内にあるいくつもの仲間集団の包摂と排除の力学から生じる。今回の事件でも、当初いじめ側の生徒たちといじめられていた生徒との関係は、「プロレスごっこ」や「けんか」と理解されていた。今日の中学生における「ノリ」や「KY」を大事にする人間関係からいえば、いじりを深掘りする愚は避けられねばならないが、いじりに参加しないことも友達でなくなる怖さがある。キャラとしていじられるか、いじめられるかは、紙一重である。そこには生徒としての社会的役割から切り離された、「内輪の仲間感覚」が強調される。
いじめの対象者には動作がのろいとか言いなりになるといった負の性質が付与され、時に流暢に英語を話すといった優秀性さえ烙印となる。ここでは仲間関係にとって説得的な排除の条件が見つかればいいのであり、いじめられる人への攻撃誘発性(vulnerability)を発見することは教室内の偶発的な出来事の現れに依拠することになってしまう。そのため、自死してしかいじめの存在を証明できないといういじめ被害者の心理も生じる。
教師のいじめ対応の困難さは、問題のこうした不透明な性質にある。いじめを見つけようとすると、瑣末なことでもケアしなければならないと思えてくる。反面、見ようとしなければ、よくあるふざけや仲たがい以上には一切が見えなくなる。どれほど研修を積もうと、いじめに気づく感受性はこのような現場の状況や経験知に依存しており、発見の困難や不安は容易に解消しない。そのため、リスクを抱え防衛的な空気が広がる今日の教育現場ではいじめ問題が生じていないとすることに関心が寄せられ、あるいは誰もが納得できるいじめ問題への対処法をとることで説明責任を果たしたと理解しようとする。
だがすでに強調したように、本質的にいじめはなくならない。むしろいま現場の当事者に必要なのはいじめ問題に気づき問題とともに生きる姿勢なはずである。学校を生活の場と捉え直し、問題を抱える子どもたちと日々関わりながら応答し続ける「責任」(responsibility)こそが、教師に限らず現場の当事者すべてに必要だったのではないか。メディアの矛先となった問題対処や回避への教育関係者の過剰な反応が、日々の関係性を基盤として直視すべき問題理解のまなざしを歪めてしまったと言っては言い過ぎだろうか。大津いじめ事件は、リスク社会の中で教育現場にとって本当に必要な責任のあり方とは何かを鋭く突き付けている。