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櫻井 秀子

櫻井 秀子 【略歴

イスラーム経済市場と共同体の再構築

櫻井 秀子/中央大学総合政策学部教授
専門分野 中東地域研究、イスラーム社会思想、イスラーム経済

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〈生活行為規範としてのイスラーム〉

 いま「イスラーム」という言葉から、何が想像されるだろうか。おそらく頭に浮かぶのは、原理主義という言葉に始まって、紛争やテロリズム、女性差別など、何か恐ろしくて近づきたくないようなイメージばかりかもしれない。確かに中東イスラーム圏では、第二次世界大戦後から今日に至るまで、真の平和が達成されたことはない。それどころか現在の中東情勢は、これまでにないほどの危機的状況にさらされている。その最大の原因は、外部の諸大国による新たな分割・再編のための介入にあるといっても過言ではなく、それは、「第2のサイクス=ピコ協定」という表現によって説明されていることにもあらわれている。

 しかし他方では、「イスラームだから、原理主義だから、紛争がやまない」といった、説明ともつかない説明に納得する傾向もみられる。その背景には、イスラーム=宗教という定式があり、ここでの宗教が含意するところは、頑迷で理性とは無縁の信仰である。そのようにイメージされた「宗教」は、魔法のブラック・ボックスで、一瞬わかったような気分にさせてくれるが、実際にそこに示されるのは、解決の糸口の見つからない袋小路である。

 だがここで重要なのは、まずそのような思い込みを払拭し、そして次に、なぜ中東イスラーム地域が延々と分割の対象となるのかを考えてみることである。そこに浮かび上がるのは、イスラームの生活行為規範としての側面であり、それが内包する社会構築力である。すなわちイスラーム文明のもつ潜在力そのものである。そしてそれは近代国家システムと新自由主義的なグローバリゼーションに抗するかたちで、徐々に頭角をあらわしている。その中でも顕著に力を発揮しているのは、イスラーム経済市場である。

〈イスラーム経済市場〉

 イスラーム経済市場とは、シャリーア(イスラーム法**)を遵守した経済活動がとり行われる場である。そこではシャリーアにもとづく投資や商品の売買がなされ、日本企業もスクーク(イスラーム債券)やハラール認証商品を扱う市場に参入している。イスラーム経済は実体経済を基本とし、利子をはじめとする仮想利益を禁じていることから、その金融市場では、実体経済の基本にもとづいた投資方法が編み出されている。イスラーム金融市場は、ここ10年間に急速に成長しており、その実体経済を堅持する政策は、2008年のリーマンショックの余波を最小限に食い止めたといわれている。また「ハラール」というのは、「シャリーアにおいて許可された」という意味であるが、その商品市場では特に、イスラーム法で禁止されているアルコールや豚肉を使用していないことに加え、イスラームの法令を遵守したラインで生産された商品に対し認可を与える制度が導入されている。

 このようなイスラーム経済市場の拡大は、ムスリム(イスラーム教徒)の日々の信仰の実践を反映するものである。ムスリムはシャリーアを遵守した経済行為を通じて、本来のイスラーム的な社会関係を回復しイスラーム共同体を再構築しようとする方向へと地道に歩んでいる。ただしそれは、イスラーム法に照らして正しい投資、生産、購買を行えば十分というものではない。拙著『イスラーム金融:贈与と交換、その共存のシステムを解く』において論じたとおり、贈与的な分配行動が市場交換と表裏一体となって実践され、贈与と交換のバランスを通して築かれた、他者との共存関係がともなわなければ、イスラーム経済は実践されているとはみなされないのである。

〈新自由主義的なグローバル化の中で〉

 1990年以降、新自由主義政策がグローバルに展開する中、市場は徹底的な交換一元システムへと転換され、贈与・互酬的関係は縮小・排除の一途をたどっているが、イスラーム社会もその例外ではない。貧富の格差はこれまでになく拡大し、社会的弱者の切り捨てともいわれる状況に陥っている。そのような状況は、イスラーム経済が本来発揮すべき共同体構築力の衰退を示すことに他ならない。すでに述べたようにイスラームでは、シャリーアを遵守して正しく儲けることは奨励されることである。しかし同時に、その利益も正しく使われることが条件である。中でも重要なのは、非営利的な領域や、社会的弱者の領域に利益を循環させることであり、イスラームにおいてそれは、喜捨を通じてなされる。

 イスラームの喜捨にはさまざまな方法があるが、その一つであるワクフという不動産の寄進は、イスラーム社会における贈与と交換のバランスを保つための要となっている。イスラーム社会では、モスクをはじめ、バーザール、学校、病院、図書館、水飲み場等の公共施設は、ワクフによる寄進によって整備された。イスラーム法では、設立趣意書に示されたワクフの用途を容易に変更することはできないが、神に寄進された公共財を管理し社会福祉を絶やさないように努めることは、後代も含めたムスリムの義務である。イスラームの公共資産は、国家や市場によって管理されるものではない。したがってワクフに代表される公的領域は、神の代理人としての民衆が管理運営するがゆえに、新自由主義政策が展開する市場の圧力から自由な避難所、アジールとなりうるのである。

 異文化研究は、自文化の姿を映す鏡を見つめることでもあるが、イスラーム経済研究から照らし出されるのは、地域社会がこれまで培ったアジールのほとんどが解体され、市場の安定と成長を最優先すべきという一種の強迫観念によって自縄自縛になりつつある、わが社会の姿ではないだろうか。

サイクス=ピコ協定:1916年に英仏間で取り交わされた、オスマン帝国領の分割に関する秘密協定
**小稿ではイスラーム法について詳述する紙幅がないので、眞田芳憲(中央大学名誉教授)著『イスラーム法の精神』(中央大学出版部)を参照いただきたい。

櫻井 秀子(さくらい・ひでこ)/中央大学総合政策学部教授
専門分野 中東地域研究、イスラーム社会思想、イスラーム経済
神戸大学経営学部卒業(1981)、国際大学大学院国際関係学研究科修了(1985)、博士(経営学)(明治大学)。
国際大学大学院(助手、講師)、イラン高等教育省人文研究所(客員研究員)、作新学院大学(助教授、教授)を経て2009年より現職。
著書:『イスラーム金融:贈与と交換、その共存のシステムを解く』(新評論、2008年)他。
翻訳書(ペルシャ語):『アリー・シャリーアティー、イスラーム再構築の思想』(大村書店、1997年)。
論文:「ポスト・コーポレション時代のイスラーム的企業」『異文化経営研究』(第8号、2011年)他。