トップ>オピニオン>鷗外「山椒大夫」からのメッセージ ―現代の私たちに問いかけるもの―
関 礼子 【略歴】
関 礼子/中央大学文学部教授
専門分野 日本近代文学、表象論、ジェンダー論
現在、高校の「現代文」の教科書に載っている鷗外の作品といえば、「舞姫」が定番のようですが、1990年代頃までは「山椒大夫」という作品が収録されていました。興味深いことにそれ以前の1950年代から1970代頃までは、中学校でも数多くの国語教科書に掲載されていました。実は私は、この作品に中学生の時に接したひとりなのです。中学生だった私は、すでに「安寿と厨子王」の話などは絵本昔話などを通じてなんとなく知っていましたが、教科書で読む鷗外の「山椒大夫」をうまく受け留めることができないでおりました。
その後歳月が経過し、大学教員になってからこの作品は鷗外の独創ではなく17世紀頃、人々の間で流布していた説経節「さんせう太夫」が基になっている歴史小説であることを知りました。説経節とは町の辻、つまり人々が集まる場所で、あたかも現代のストリート・ミュージシャンのように説経(説教とも)師が声と身ぶりによってその物語世界を再現するものです。「さんせう太夫」とは荘園領主に隷属する「散所」を統括する長者のことで、そこで働く民は過酷な労働を強いられ、来世での解放を夢見ておりました。鷗外はこのような旧い形態をもつ語り物を、その歴史性は残しながらも彼自身の言葉によって再構成し、歴史小説でありながら近代小説でもあるという世界を生み出しました。
鷗外がこの作品を発表したのは大正4(1915)年、いわば日本が近代国家としてスタートを切り、西南戦争などの国内の争いや日清・日露戦争などの他国との戦争も起きた激動の明治が終り、ようやく自国の遠い過去を想起する余裕が生じたときでした。鷗外自身の作品史から言っても、「芥川龍之介らに継承される大正期歴史小説の型をさだめた傑作」(三好行雄『山椒大夫・高瀬舟』新潮文庫・旧版解説)と言われていることは今日では案外知られていないかもしれません。
この物語は平安時代の末期、藤原氏による摂関政治は衰退しつつあったものの、まだ武家が台頭するには至らない時代の話です。いまNHKテレビの大河ドラマで「平清盛」が放映されていますが、それよりも少し前の11世紀末の時代です。そんな旧い物語を中学生が理解するのは難しいのかもしれません。しかし、さきほど述べたように「山椒大夫」と説経節の関係を知ってしばらくしてから、今度は溝口健二監督による映画「山椒大夫」を観る機会があり、物語内容が部分的に変更されているものの、リアルな画面のなかに詩情をたたえた叙事詩的なドラマの世界に強い感銘を受けました。
こうして私のなかで小説・説経節・映画という三つのジャンルが合体することで、ようやくこの物語の生命線が見えてきたのです。大きな時間と空間のなかで息づく物語は、父との離別による父探しの旅からはじまり、次には母との離別、やがて姉弟だけで他国で奴婢として生きねばならないこと、その孤立感と苦しみ、考え抜いた挙句の脱出劇と結末の母との再会等々、今日読み返しても飽きない起伏の多い物語内容を持っています。特に弟の厨子王を逃して自死してしまう安寿像は哀切きわまりないものですが、その「死」は「生死」を超えた次元を私たちに暗示しているように思われます。
このように「山椒大夫」は少しも愉しい話ではありません。しかし、日本の古層から連綿とつづく昔話に材を取ったこの物語の安寿と厨子王は、実に果敢に生きたと言えると思います。説経節の「さんせう太夫」では神仏の化身として讃えられる安寿ですが、鷗外は彼女をそのような天上的な存在ではなく、地上の行動する女性として描き、対するに厨子王は彼女の願いを遂行する男性として描きだしました。この物語の深層は困難な時代のなかで家族や個人がどうしたら人らしく生きるか、ということも描きだしているのではないでしょうか。時代の決まりや約束事(掟)が不確かなとき、それらに目をそむけるのではなく敢然と対峙して生きる道筋を模索すること。鷗外の「山椒大夫」には優れて現代的なメッセージが込められていると思われます。
遠い中学生の日に撒かれた物語の種は、長い年月を経て私のなかでようやく確かに実ることができました。今回、「鷗外生誕百五十年」という記念の年に、このような機会を与えて下さった皆さんに感謝致したいと思います。
(なお、この文章は2012年6月23日に理工学部校舎で行われた鷗外講演会の発表をまとめたものです。)