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里麻 静夫

里麻 静夫 【略歴

言語表現者のある姿勢

里麻 静夫/中央大学法学部教授
専門分野 16~19世紀英国の詩と演劇

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ミルトンに始まる

 もう40年近く前になるが、大学の学部生だった時に、17世紀英国の詩人ジョン・ミルトンが文学上の関心の1つになった。大学院でもこの詩人の考察を続けて、特に彼の長詩を読んでいた時に、作者が自らの表現手段であることばの性質・能力をどう捉えていたかに関心を持った。そこで得た結論をごく簡単に述べると、こうなる――

ミルトンの長詩の主人公達は、人間であるが故に、その理性や知識、洞察力などが当然限定されており、そのために誤りを犯す。だが彼等は、それらの能力を最大限駆使して過ちの原因や意義を認識し、最後には神の恩寵に身を委ねる。その過程は、人間のことば――ミルトンが言うところの「ことばの手続き」‘process of speech’――が自己認識を行い、救済される過程でもある。(‘process of speech’は叙事詩『楽園喪失』第7巻に出て来る表現であり、神や天使とは異なり有限な能力しか持たぬ人間に宿命的な、知の媒体の謂である。堕落の恐れがあるアダムとイーヴを教育するために神によって遣わされた天使ラファエルが、世界創造等について人類の祖に教える際に、時間や運動よりも早い神の業は「諄々と言葉をつらねて地上のものに分るように説かないかぎり」〔平井正穂氏の訳〕人間には理解できない〔“to human ears/Cannot without process of speech be told”〕、と言うのである。)登場人物達は、不可解な運命や超自然的事象等の人知を超えるものと直面すると、それらの表現や理解が自分のことばでは充分できないのではないか、との思いに捕らわれる。しかし人間である以上は、有限な諸能力の器であるそのことばを運命的なものとして引き受けざるを得ない。そのことばは人知を超えるもの――神秘――の表現のために、自らの可能性を尽くす。そして、成すべきことを成し、自らの限界を認識したその後に、ことばを超えることば、恩寵の器である祈りとの一体化を果たす。

 人間のことばと恩寵とのこのような一体化を、私は修士論文で「言語的英雄行為linguistic heroism」と規定した(1981年)。人間として持つ能力が有限であるという認識は、作者にあっては、自らの表現媒体である言語が人知を超える神秘をよく表し得るか、その神秘に対していかに対処すべきか、という問題を提起する。登場人物に求められる言語的英雄行為を、作者自身も遂行しなければならない。彼は、ことばの限界を認識しつつその可能性を最大限探ることを、言語の不信と駆使の逆説を引き受けることを、迫られる。

 言語への不信を表明しつつその表現媒体を高度に駆使する逆説的身振りは、古典古代からダンテやロマン派作家等を介して現代まで続く伝統的姿勢である。私がこれまでのところ、ミルトン以外でそのような姿勢をある程度詳しく論じているのは、19世紀英国の詩人アルフレッド・テニスンである(1997年、1998年、2002年)。彼の長詩(『国王牧歌』や『イン・メモリアム』他)を読むと、彼も又自らが選んだ表現媒体の可能性と限界を強く認識していたことが、そして、登場人物達も又人間として引き受けざるを得ない有限な言語による表現を自らの生の条件としていることが分る。但し、この詩人の場合、彼の背後の時代思潮故に伝統的な言語観・世界観が大きく揺らいでいるので、作者自身や登場人物の言語的英雄行為が一層困難化している側面もある。

今後の研究の展望

 テニスンと同時代の英国詩人ロバート・ブラウニングにも、ミルトンと共通の言語観を探ったことがある。しかし、この詩人に関しては、彼の長詩『指輪と本』の第1巻が言語並びにそれを器とする人知のあり方についてミルトンやテニスンと同様の認識を示しているという、本格的論考のための準備的報告をするに留まっている(2004年)。

 その後、ミルトンの言語観・人知観・世界観を参照点とする考察を更に進めるための材料を幾つか手に入れることができた。2010年度から本学法学部で文学の講義を受け持っているのだが、そのテーマは物語詩であり、英国の中世から近・現代に至る作品を幾つか扱っている。2011年度の講義では、最後に、20世紀に活躍した詩人・批評家T.S.エリオットの『荒地』という詩を取り上げた。その時の参考文献の1つである注解書『荒地・ゲロンチョン』(大修館書店、1967; 1972)の序論に於て、エリオットの時代背景として、概略以下の事が指摘されている――

第1次大戦とその後の情勢は、エリオットのような青年知識層に計り知れぬ衝撃を与えた。彼等は、英国の批評家T.E.ヒュームのような第1次大戦の「戦前派」よりも更に、人間の頼りなさ、人間と神との断絶を感じた。ヒュームが至っていた結論とは、混沌たる世界は神の秩序から完全に遊離してしまったので、人間はその混沌の中にあって、可能な限り倫理的・制度的訓練をして、幾らかでも神の秩序に近いものを作り出す必要がある、というものである。エリオットの思想も、根底に於ては、これと同列である。

 自分は有限な存在であるとの自覚を持ちながら、本質を混沌とする宇宙・世界に対して神の秩序の近似物を与えようと努める――この姿勢はミルトンに通じることは勿論だが、文学の講義で最初に扱うことにしている14世紀英国の詩人チョーサーにも、同様の姿勢を認め得る。講義では、物語集『カンタベリー物語』中の長詩『騎士の物語』を扱っている。この詩のケンブリッジ版テキスト(1995年)の編注者は、その序論で、チョーサーが作品の語り手を前面に出して作品の人為性を隠そうとしない点に着目して、作者がそうするのは詩作とは極めて困難な営みであるという認識があるからではないか、と述べている。混沌として扱いにくい材料を美しくて意味のある芸術作品に仕上げる作業は、これで完全ということが決してない難事である。そうであればこそ作者は、その困難を自分がどのように、又どの程度克服したかを――芸術という難事に立ち向かう自分の技量がどれほどのものであるかを――人々に示したいのではないか、それ故に作品の人為性を前景化しているのではないか、と言うのだ。序論の最後では、主要人物の1人であるアテネ王が、神ならぬ人間として様々な限界を抱えながらも、偶然に支配されて方向性の定まらない世界を秩序化しようと奮闘しており、その姿は作品に対称性という秩序を付与しようとしたりして技巧をフルに発揮しているチョーサーの姿と重なる、と述べている。この結論は、登場人物の言語的英雄行為と作者のそれとの関係を巡って私が修士論文で至っていた結論と共鳴している。

 ブラウニング、エリオット、チョーサーにミルトンと共通の言語的英雄行為を探る私の作業は、まだそのきっかけを掴んだ段階に過ぎない。今後講義のための勉強を重ねたりしながら、いつかこれらの詩人に関してちゃんとした形の発表ができれば、と思っている。

ある先生が遺したもの

 文学の講義でチョーサーを扱っていると書いたが、中世英文学を専門としない私が一応講義できるようになったのは、ある先生が主催した勉強会に出ていたからだ。その先生とは、東大名誉教授であった故嶺(ミネ)卓二先生である。1914年にお生まれになり、2011年に96歳で亡くなられた。エリザベス朝(英国のシェイクスピアの時代)を始めとする広範な時代の英文学及び西洋古典に精通された、正に碩学であった。先生は東大を退官された1975年に、大学院の教え子の方々の要望に応えて私的な読書会を始められ、その会は2010年末まで続いた。私は大学院生の時に、その会が発足して4~5年経ってから参加して、その後約30年にわたり、貴重な勉強の機会を与えて頂いた。そして、先生から最後に教えて頂いたのがチョーサーだった。先生は『カンタベリー物語』の重要な物語を幾つか読まれた後に『騎士の物語』を取り上げられて、その詩を読まれている途中で亡くなられた。しかし私は、それまでに先生の教えを受けていたためにこの詩を読了し得て、講義で用いることができるようになったのである。

 私や他の読書会のメンバーが嶺先生から受けた学恩は測り知れない。しかし先生は、我が中央大学に対しても、極めて大きな学問的財産を残して下さった。上記勉強会のメンバーに中大の教員が比較的多かったことが1つの理由であろうが、英語関係の研究・教育に資するようにと、本学への極めて多額の現金寄付を遺言して下さったのである。

 会の側としては本学法学部の秋山嘉(ヨシミ)教授が中心になって、中央図書館と、先生のご遺産の活用について協議を重ねた。そして、①本学英語教員が数年前に図書館に導入を希望したことがある文学等の英語文献のデータベース(DB)の購入と、②図書館がかねてから収集に努めて来たケルムスコット・プレス刊本とその関連書籍の購入とに寄付金の用途を絞り、本年3月に福原学長に具申して、了承を頂いた。

 上記①に関しては、Literature Online(8世紀から現代までの多くの文学作品のフル・テキスト等を収録)とEighteenth Century Collection Online(18世紀に刊行された英国及び英語圏のあらゆる印刷物を対象とするフル・テキストDB)の購入が特筆すべき点である。これらのDBは非常に高価であり、それを揃える大学は日本では現在数校に留まっている。図書館が既に持っているDBにこれらのDBが加わることにより、本学の英語・英文学関連の電子情報環境は一挙に国内最高の水準になる。教員のみならず学生諸君にとっても、図書館の利用価値が格段に増すことになるだろう。

 ②のケルムスコット・プレスとは、19世紀英国の詩人・美術工芸家・社会思想家ウィリアム・モリスが設立した印刷所である。そこが刊行した書物は美術品としての価値が高く、それと連動して、価格も高い。かなり高額であるために本学が未所蔵だった『チョーサー著作集』を始めとするケルムスコット・プレス刊本とモリス並びに彼の周辺の作家達に関連する稀覯本を色々と購入できることで、本学図書館の存在感は大いに増すだろう。DBと稀覯本に関しては、その内図書館から詳しい情報提供がなされるはずなので、ぜひとも注目して頂きたい。

 私個人としては、偶然とは言え、嶺先生から最後に教わったチョーサーの豪華な作品集を中大が所蔵することになることに、因縁めいたものを感じないでもない。又、先生は人間離れした広く深い知識の持ち主であったから、その先生のおかげで私達中大の教職員や学生を始めとする数多くの人が知識増進の強力な道具であるDBを新たに使えるようになることは、先生の私達へのご遺産としていかにもふさわしく思える。

里麻 静夫(さとま・しずお)/中央大学法学部教授
専門分野 16~19世紀英国の詩と演劇
1954年生まれ(新潟県出身)。新潟大学人文学部卒業(1977年)。東京大学大学院人文科学研究科修了(1982年)。日本医科大学専任講師、中央大学法学部専任講師・助教授を経て、1993年より現職。2012年現在の主な研究課題は、17世紀後半~18世紀前半の英国風刺詩と、中世のチョーサーから現代のT.S.エリオットの作品に至る英国物語詩。主要著書に、共著『想像力の変容――イギリス文学の諸相』(研究社出版、1991年)、共著『風習喜劇の変容――王政復古期からジェイン・オースティンまで』(中央大学出版部、1996年)、共著『埋もれた風景たちの発見――ヴィクトリア朝の文芸と文化』(中央大学出版部、2002年)、共著『地誌から叙情へ――イギリス・ロマン派の源流をたどる』(明星大学出版部、2004年)、単著「Popeの「詩の擁護」」(研究社刊『英語青年』2005年9月号)がある。主要翻訳に、ダイアン・マクドネル『ディスクールの理論』(新曜社、1990年)がある。