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佐藤 尚次

佐藤 尚次 【略歴

田んぼは「自然」か?

佐藤 尚次/中央大学理工学部教授
専門分野 構造工学、設計論、リスク学

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はじめに

 現在、構造設計を中心として、最適化を含めた数学の基本を低学年に、安全性・信頼性という概念の紹介と、設計ルールの作り方への反映、社会に現れる諸問題の解釈などを大学院生や高学年に教育する役割を担っている。

 高校生の頃「公共的なことは価値が高い」と思い、またベンダサンの「日本人は水と安全はタダだと思っている」に刺激されたことが今の専門につながっている。一昨年の「正義論」ブームの際、土木屋(最大多数の最大幸福論の単純な信奉者であることが多い)も議論に加わるべきと感じていた。そこに昨年の震災である。個別に語るべき技術の課題も多いが、もっと基本的な社会のことにも発言意欲を感じる。公共事業の意味や事業仕分け議論、あるいはTPPの問題に含まれる「社会が要求する安全の水準の、国際的な比較とすり合わせ」など、横糸でつながる共通の問題の構造があるように思う。

 文明化された社会とは、利便性や安全性への保障をいわば当然の「外壁」として生活の周囲にはりめぐらせ、その内側で経済活動の果実の分配やら、幸福の追求の論議をする社会であろう(サンデル先生も、「外壁の自明さ」への懐疑には甘いところがあるように感じた)。ここで「外壁」と称するのが、東北沿岸の防波堤であったり(これは「まんま」ですな)、被災者のもとに救援の人・モノを運ぶ道路であったり、関東地方までひっくるめた電力供給のことを指しているのは容易にご理解いただけるであろう。

 外壁の側から、内側の人々と一緒になって正義を論じるにはどうしたらいいのか。経済学では幸福感とか満足というようなものまで貨幣価値換算する「厚生」の概念があるが、あるいは「正義」にも大小比較を可能にするモノサシが存在するのではないか。以下に述べる我々の考えていることが、それに近いかどうか、ご教示を問う次第である。

その気にならないと外壁は見えないよ

 標題の田んぼの話は、筆者が高校生や新入生にしばしば投げる問いかけである。勿論唯一の正解などはない。土や水、空気や太陽光、あるいは微生物など、そこに「ある」ものに、ある程度委ねて「生命の成長」を実現しているのだから、自然だと回答するのは素直である。とはいえ、「自然が勝手に作った」田んぼなど存在しないし、生命を育んでいるといっても、猿や猪は田んぼでは暮らせない。生育可能な生命を、人間が限定しているという意味でも人工物である。我々は、さらに一歩踏み込んで「田んぼの人工物性」を追求する視点をもつ。荒地や沼や林をどういじるか、水はどこから持ってくるか、あぜ道の配置はどうするか、地面はどう固めるか…日本で稲の水耕が広まったのは弥生時代初期だそうだが、当時の人々には、田んぼは「先端の構造物」と見えただろう。これが「自然」に見えてしまうのが「外壁化」の帰結だ。当学科の門をたたく人たちには、あえてこういうメッセージを送るわけである。

 一方こんにち、農業の環境に与える(悪い意味での)影響、あるいはサステナビリティにも注目が集まりつつある。それはよいのだが、「美しい自然の風景」と語る人と、「環境破壊・健康被害」と批判する人と、両極端の側からばかり話が聞こえてきて、もう少し冷静になれないかと感じている。

 この話を「電気(電力供給)」に置換えて考えようとするのは、牽強付会であろうか。電気を自然だと思う人は居ないだろうけれど、「あって当然、どう供給するかなんて意識しない」と感じるのは、「田んぼの人工物性」を意識しなくなるのとよく似ているのではないか。さらにネガティブな側面に批判が集中することも。水供給も同様と考える。あなたの目の前のペットボトルのお茶は、「いつかどこかで降った雨」なのであるが。

ゼロと無限大を掛け算するといくつになるのか

 「自然」は意のままにならぬが、「人工物」は制御できて当然と考える人がいる。工学屋は凡そ人のやることに事故はつきものと考えるのだが(事故を起こすつもりで車の免許を取る人はいないだろう)。避けられぬにせよ、リスクは小さくすべきであり、そうした「落としどころ」を考えるのに、

 Minimize C=C+P×C … (A)

という式(というか考え方のプロセス)が用いられる。右辺のCは投下費用であって、Pはまずいことが起こる確率、Cはまずいことの発生で蒙る費用。後者2つの積で表わされる期待値が用語「リスク」の正しい定義である。添字IはinitialでFはfailureである。総費用の形で書くのが我々の分野の習慣になっているが、例えば住宅の耐震補強のように、既存資産への追加費用投下(⊿C>0)により既存リスクを低下させる(⊿P,⊿C<0)増分形で書き、第2項の減少値を第1項と比較する「費用便益分析」の意味で説明する方がわかりやすいかも知れない。特別な式ではない。リスクマネジメントでも保険でも、宝くじ(添え字FはSuccessに変えるべきだが。もっとも宝くじは当選金期待値ではなく夢もしくは妄想を買っている)でも出てくるし、リスク資産の価格査定だって本質的には同じことである。日米の牛肉の流通基準の違い(日本の方が狂牛病のPを小さくしたがり、そのために大きなCが必要となっている)などもこういう視点で整理できる。誰が払っているのか、ということも含めて。

 この特別でも何でもない式の考え方を、「外壁」の分野がやっていると説明しようとすると、突然に受益者とのコミュニケーションに困難を来たすことになる。社会の安定や人命の価値は限りなく高い。つまりCは無限大である。当然それらが危険にさらされることなどあってはならない。つまりPはゼロでなければならない。それで別に間違ってはいないが、じゃあそのためにいくらお金使わせてくれるんですか(?)というと、答えてくれない。上式のCのことである。従来は「任せるわ」だったのだが、無駄遣いという批判が人口に膾炙し、ついに事業仕分けという公の場で査定されるに至った。仕分け側の不勉強に立腹することは勿論あるのだが、専門家の側も論点整理や、話を理解してもらうための上手な表現方法の整理が十分出来ているとは思えず、反省することの方が多い(同僚の山田正さんが、国交相時代の前原さんに、毎週のように進講していたのが記憶に新しい)。何でもハイスペックにするのがいいとは筆者は思っていない(牛肉もである)。支払い能力に見合わない、過分に小さいPを求めすぎるのは、財政破綻という別のCのPを増大させるトレード・オフである。

 Pについて、「ゼロと無限小は違うんですよ」という議論もある。人によって理解度が違うところだが、昔よりは「100%安全という状態はないんですよ」という説明が受け入れられやすくなっているかとは感じる。計算方法の複雑さ、確率の意味するものへの感覚的な理解の問題もある。支払の負担者と受益者のずれ、フリーライダー問題などもある。

 しかし近年、特に技術者の側と受益者の市民の皆様とで「意見交換のための共通文法」のようなものが必要だなと感じるのは、CやCの評価の方法である。最初に述べたように、「具体的な金銭的支出」だけでなく、主観的なものも含めた厚生をいかに含めるか。それが筆者の言う「正義をはかるモノサシ」のつもりである。一つだけ具体的に例を挙げると、東北の沿岸復興に際して、防波堤の高さはどうすべきなのか。「想定しうる最大の津波に対応(P→0)」と言われれば、技術屋はそれなりに答えは出す。でもそれでいいのか。財政への影響は別にしても、例えば「高いコンクリートの壁で海と仕切られること」は幸せなのか? それはCの一部ではないのか(「田んぼが自然でないことに気づく不幸」かも知れない)。

スチュワードシップをもって

 例えば医学の分野で、医師が治療方針決定に支配的であった時代から、患者の自己決定権の尊重、セカンドオピニオンの提示などが広くなされる時代になりつつある。医師だけでなく、技術者も含めた専門家が従うべき行動指針として「マスターシップからスチュワードシップへ」ということがいわれる。我々も、説明のための言葉を工夫し、復興の問題、電力供給の問題など「任せておけ」「素人は黙っていろ」ではなく、複数の可能な案から考えてもらうような姿勢をとるべき時代になっているのだろう。そのために、外壁(謙って下部構造と称してもいいが)の重要性への理解、田んぼが自然でない(安全はタダではない)ことへの意識、ゼロと無限大の中味の説明など、いろいろ準備が必要ではないかと考えているのである。

佐藤 尚次(さとう・なおつぐ)/中央大学理工学部教授
専門分野 構造工学、設計論、リスク学
1957年1月生まれ。中1まで北海道、以後東京都。1979年東京大学工学部土木工学科卒業。修士課程を経て82年より同学科助手。84年工学博士取得後、85年~関東学院大学工学部講師・助教授、97年~筑波大学構造工学系助教授を経て99年より現職。
研究室では”How safe is safe enough?”を合言葉に、土木構造物に限らない広い範囲の安全の課題をテーマに学生と議論する。国公省や土木学会で構造設計への安全性付与や荷重ルールの方向付けの議論に参画。ISO国内委員会などの経験から、欧州技術基準統合の経緯をTPP交渉と重ね合わせて眺めている。