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鷲谷 徹

鷲谷 徹 【略歴

労働のサスティナビリティを目指して

鷲谷 徹/中央大学経済学部教授
専門分野 社会政策

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『職工事情』時代の「女工」の労働

 今から101年前に日本で最初の社会政策立法として知られる「工場法」が成立した。工場法は主として繊維産業に働く女性労働者の過酷な労働条件、とりわけその長時間労働、深夜労働の改善を目指したものであった。工場法成立を主導した官庁である農商務省商工局は、工場法の必要性を根拠づけるため、工場労働者の労働条件・労働実態を明らかにすべく、全国各地の工場に立ち入り、聴き取り調査を行い、データを収集して、その結果を『職工事情』(1903年)という報告書にまとめ上げた。

 『職工事情』によって、当時の労働時間の実態をみるならば、「紡績工場においては昼夜交代の執業方法によりその労働時間は11時間または11時間半(休憩時間を除く)なるを通例とす。……始業及び終業の時刻に就ては昼業部は午前6時に始めて午後6時に終わり、夜業部は午後6時に始めて翌日午前6時に終わるを通例とす」。「徹夜業は一般職工の堪え難き所なるを以て、夜業には欠勤者多く、操業上の必要なる人員を欠く場合多」く、「昼業を終えて帰らんとする職工中に就き居残りを命じ遂に翌朝に至るまで24時間の立業に従事せしむること往々これあり、甚しきに至りては尚、この工女をして翌日の昼業に従事せしめ通して36時間に及ぶこと亦希に之なしとせず」というのである。せいぜい週休は1日であるから、週所定労働時間は66時間以上、かつ、1週間交代で深夜業に就き、さらに早出・残業・休日出勤は常態化していたという訳である。

 こうした長時間労働と深夜労働の「衛生上に有害なること」を示す根拠として、この項を執筆した調査員はある紡績工場の女工81人を対象に、深夜業による健康悪化の根拠を求め、その体重の増減を計測した。今風に言えばビフォア・アフター分析を試みた訳である。その結果は

before:
当初の平均体重:36.659㎏
after:
1週間後の深夜労働終了時の平均体重:36.021㎏
after:
1週間後の昼間労働終了時の平均体重:36.280㎏

 深夜労働によって大きく体重が減少するが、昼業期間中においてその半分も回復せず、まさに、肉体の縮小再生産状態にあることがわかるのである。『職工事情』は「徹夜業の存在せる限りはとうてい健康なる職工を得る能わざるは固より疑いを容れざる処なり」と評価する。労働はまさにサスティナブルではなかったのである。結果、多くの女工が、当時死に至る病であった結核等に罹患し、実際、少なくない人々が若くして命を失ったのである。

 1911年に制定され、1916年に施行された工場法は、当時の国際標準に比してまことに低い水準のものであったが、それでも、その後改定が行われ、1929年に至ってようやく年少者及び女性の深夜勤務が原則禁止されるようになった。しかし、全ての労働者を対象とする労働保護立法の成立は戦後、1947年の労働基準法制定を待たなければならなかった。

今日における労働のサスティナビリティ

 さて、『職工事情』が明らかにした過酷な労働は、工場法101年後の今日、なくなったのであろうか。答えは否である。過労死や過労自殺の存在は、労働基準法でさえも、労働→死の経路を断ち切ることができないことを示している。厚生労働省によれば2010年度に労働災害として認定されたいわゆる「過労死」者は113人、「過労自殺」者は65人となっている。しかし、これはまさに氷山の一角であって、その背後には、労災認定請求したが、認定されなかったケース、そして労災認定請求に至らなかった多くのケースが存在しているであろう。

 過労死や過労自殺の原因は個別にみればかなり複雑ではあるが、長時間労働が主要な規定要因であることは共通して言える。それでは労働時間の実態はどのような状況にあるのか、例えば総務省「労働力調査」結果を見てみよう。同調査は世帯単位の個人調査であり、労働時間の階級別分布を見ることができる。2010年の調査結果によれば、週60時間以上働いている労働者数が502万人、全体の9.4%を占める。週60時間以上という数値は、年間就業時間数に換算すると3120時間以上ということになる。ちなみに厚生労働省の「過労死」の労働時間に係る認定基準によれば、「発症前1か月間におおむね100時間又は発症前2か月間ないし6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は、業務と発症との関連性が強いと評価できる」ことになっている。労働者が1日も年休を取らず、労働基準法の法定労働時間通り、すなわち週40時間労働を1年続けると40×52=2080時間働くことになる。そこに、過労死認定基準の後者「6か月間にわたって、1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働」を加えると、2080+80×6=2560時間となる。3120時間という数字は、それをさらに660時間上回る、すなわち、毎月80時間の時間外労働を1年続けても到達しない数字なのであり、過労死認定基準をはるかに超えるほど働いている労働者が500万人を超えているということである。

 こうした長時間労働を可能にする一つの要因は、労働基準法に根本的弱点が存在することである。すなわち、労働基準法第36条によって、使用者が労働者代表と時間外協定さえ締結すれば、事実上無制限の時間外労働を課すことができること、さらに、時間外労働には割増賃金を支払わなければならないが、その割増率の低さ故に時間外労働抑止力を有さないことである。

長時間労働の何が問題なのか、その解決は何をもたらすのか

 第1に、長時間労働が健康への悪影響をもたらすことは、時代を超えて変わりないことはすでに見たとおりである。すなわち、長時間労働そのものが強い精神的・肉体的疲労をもたらす。さらに、長時間労働によって、労働者は本来睡眠や休養を取るべき生活時間を奪われ、従って疲労回復を阻害されることを通じてさらに疲労を増加させる。長時間労働は、労働者の疲労を二重に加重させるのである。

 第2に、長時間労働は睡眠時間等の生理的生活時間のみならず、労働者の個人的生活時間を蚕食し、家庭生活に歪みを与える。生活時間の国際比較をすると、日本の男性の家事時間はヨーロッパの男性に比して非常に少なく、男女間の格差は突出して大きい。日本の女性は男性が担当しない家事を引き受けざるを得ず、それは女性の社会進出を阻害するという結果に結びつく。また、長時間労働の男性の家庭不在は家族関係に様々な歪みをもたらす。逆に、労働時間短縮は、家庭における男女共同責任の実質化の条件であり、男女共同社会実現の前提である。

 第3に、労働時間短縮は、やはり同じく労働者の個人的生活時間の確保、増大によって、労働者の労働能力を含む潜在的可能性を高める。身心を鍛え、社会的活動に参加し、様々な人びととの交流の機会を得た労働者は、自らの労働と生活を捉え直し、企業社会そのものを見直す機会を得るだろう。そのことは長時間労働の本質的背景をなす、企業内及び企業間競争による長時間労働への駆り立てそのものへの労働者による異議申し立てに結合するかも知れない。

 第4に、ワークシェアリングによる雇用拡大についてである。雇用と労働をめぐる今日の状況はまことに矛盾の極みにあるといってよい。すなわち、一方に、高い失業率と大量の非正規労働者、ワーキングプアの存在があるのに、一方では人手不足・長時間労働状態が併存していることである。長時間労働を解消し、そこで生まれる労働力不足を新規雇用によって補えば、たちどころに労働時間問題と雇用問題は同時に解決することになる。

 第5に、余暇生活の充実を通じた経済活性化の可能性についてである。とりわけ長期間の休暇取得によって、細切れ的な休暇の過ごし方ではなく、よりダイナミックな余暇活動が展開されれば消費拡大効果は大きいものとなろう。

 第6に、企業にとってのメリットについてである。労働時間の延長は、短期的には企業の利益に結びつくかも知れない。しかし、中長期的に見た場合、労働者の疲労増大を通じた生産性の低下を招いたり、品質低下に結びつく可能性がある。さらに、長時間労働を課す企業は、今日のインターネット社会においては、DQN(「ドキュン」)企業とか、「ブラック企業」として評判になる。逆に、まともな労働条件、環境を実現すれば、より優秀な労働者を獲得できる訳である。

 第7に、公正な国際競争条件を実現するということである。戦前の日本はソーシャルダンピング国として国際的に批判された経験がある。今日、経済大国たる日本が、長時間労働によるコスト低減を国際競争力の要因とすることなど許されない。底辺への競争を主導することなどあってはならないのである。

労働時間短縮をめぐる政策的展望

 労働時間短縮に向けて、当面最も実効性の高い戦略は、現行労働法制の有効活用と更なる規制強化の方向の模索であろう。具体的には、第一に、少なくとも労働基準法の遵守の徹底という当面の施策を重視することである。その中には、違法な労働時間運用、とりわけ不払い残業の根絶、時間外協定の当事者の選出手続きの厳格化等が含まれる。さらに、労働基準法の抜本的な改定がその先に展望されるべきである。その中で重視すべきは、時間外労働の上限規制のためのいくつかの施策であり、そこでは、EU加盟国の労働時間規制の法的根拠たる「労働時間指令」に示されている2つの規定を取り入れることが有効であろう。すなわち、時間外労働を含めた労働時間の絶対的上限を設定すること(EU「労働時間指令」では、4カ月以内の労働時間算定期間中、時間外労働を含め週平均48時間を超えてはならない)、今ひとつ、1日の労働の終了時刻から、翌日の労働の開始時刻までの勤務間隔時間の法定化(EU「労働時間指令」では最低11時間の“Rest”の挿入を規定)は我が国の労働時間に大きな変化をもたらすであろう。

鷲谷 徹(わしたに・てつ)/中央大学経済学部教授
専門分野 社会政策
愛知県出身。 1948年生まれ。 1972年東京大学経済学部卒業。
東京都職員、財団法人労働科学研究所研究部長を経て1995年より現職。
日本の労働者の労働・生活の実態調査・研究を中心課題としている。具体的には、雇用・賃金・労働時間・生活時間等が研究対象である。
最近の執筆論文として、「長時間労働の歴史と現実」(『経済』2011年12月号 No.195)、共著に『新自由主義と労働』(御茶の水書房、2010年)などがある。