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野口 薫

野口 薫 【略歴

それを解き放とうとする支配欲こそがひとつの過ち

野口 薫/中央大学文学部教授
専門分野 独語・独文学

 Atom (原子)。これ以上分割できないもの、物質の同一性の最小の担い手。「君たちが私の兄弟たちの中でもっとも小さな者に対して行うことは」(マタイ伝25章より)。誰に対して我々はそれをしたのだろうか? 新約聖書の教えは核物理学にも適用され得るのだろうか? 我々が物質のこの最小部分をその被覆から放出させるとそれは生命を脅かす危険なものになるのだが、そうさせるものは一体何なのか? 超顕微鏡的物体に対しても「傷害罪」という条項は成立するのだろうか? 古い神学は ”lacrimae rerum”(事物の涙)を知っていた。この涙が気づかれないままでいる場合、物質の最小部分は復讐行為に出るのだろうか? 原子の猛威放出。物質が我々の一部でもあり、我々の保護に委ねられているものであることを忘れた科学に対して、物質が絶望を爆発させるのだ。

 これは、スイスの作家Adolf Muschg(1934年―)が、2011年5月9日、金沢の日独友好協会(会長:楠根重和氏)で行った講演の冒頭である。ムシュクは、東京、三鷹の国際基督教大学で教鞭を取った60年代半ば以来、日本を第二の故郷と考えて度々来日し、折に触れて日本について講演したり、作品中に書いたり、新聞・雑誌に寄稿していて、スイスでは著名な知日家・親日家で、日本人の奥さんを持つ。3月11日の報を聞いて夫妻は居ても立ってもいられず、スイス国内で日本のための基金集めに奔走後、いっそ直接日本で何か出来ないかと訪日を決意し、震災後まだ日も浅い4月初旬、ヨーロッパ人の姿は皆無に近い関西空港に降り立つ形で来日して、東京、京都での一連の対談や朗読会の後、金沢で講演を行ったのであった。

 Muschg自身が聴衆に最初に断った通り、この講演原稿は書き下ろしではなく、チェルノブイリの事故(1986年4月)の後、依頼を受けてスイスの首都ベルンの大聖堂で行った講演のために彼が書いたものである。ある報道関係者からの指摘を受けて、この講演の内容が四半世紀を経てもアクチュアリティーを失っていないことに、ある意味、愕然たる思いで気付かされ、「広島・長崎の66年後、又もやこの悲劇に直面している日本の友人たちと共に、核エネルギーが持つ破壊力の問題を、再度、考えて見たいと思った」というのが、今回のいわばリメイクの講演の動機であった。

 ヨーロッパのキリスト教会の会衆を前にした講演ゆえの語源説明や神学的・聖書的比喩を散りばめた論法は、我々には確かに分かりくい。しかしあの日から9カ月を経てもなお高濃度の放射線量が計測され、それが齎す各種の自然・環境・食品汚染の危険が毎日のように新たに発見される事実を目の前にしながら、脱原発の運動は高まらず、逆に「安全が確認され次第、順次、各地の原発を再起動させる」という方向に動きつつある、経済論理先行の日本の現実を見るにつけ、だからこそ、哲学的・形而上学的で一見無用に見えるこのような徹底した思考の在り方を、紹介しておきたいと思う。

 「学問的にはそれは事実であり、技術はそれを可能にした。すなわち、我々は原子という、それ以上分割し得ないはずのものを分割し、物質の核を爆発させることが出来るようになったのだ。」それによって我々は「物質から我々に似た力」、「我々の中毒症状と同じく制御し得ない力」を引き出した。それは感覚には捉え得ず、チャルノブイリのケースが、そして今また福島のケースが示す通り、最高度に安全とされる格納容器によっても把捉し切れない力である。

 使用に際し「我々にどんな過ちも許さない」このエネルギーが我々に教えるのは、「それを解き放とうとする支配欲こそがひとつの過ちであったということである。この過ちによって我々は物質の限界を超えたばかりでなく、我々自身の限界を超えてしまった。」「我々が物質から奪い取った否定のエネルギーは、今もうすでに我々の制御下にはない。それを終結させ得るものはない。傷つけられた物質は、今もうすでに、数千年にもわたって、数百世代にわたって我々に毒を放つことをやめることが出来なくなっているのだ。」

 「これまで我々の世紀は、人間が自身に対して犯した最大の犯罪を考えようとする時、アウシュヴィッツという名前を思い出した。だが、我々の地球を有毒物質満載の、まさに呼吸さえ許さない爆弾に変えることによって、あるいは平和利用と呼ばれる原子力発電所を作って点火の緊迫度をいよいよ高めることによって、これから後に生まれて来る何世代もの人間に対して我々の犯しつつある犯罪を名指す名前があるだろうか。未来を抹殺するこの中毒に似た欲望につける名前がまだあるだろうか、そしてこの名前を口にし、せめてそれを呪うことがまだ出来る人類がまだ存在するだろうか。」という問いは非常に重い。

 「事物の涙は憤りの涙となった」今、「兄弟である原子、姉妹である母なる物質に対して行われた人間の暴力の結果の連鎖」を止めるために、唯一必要なのは、常識的にはいわば「狂気に似た振る舞い」、すなわち「この点火装置の時計を巻き戻すこと、点火装置を取り外すこと」ことではないか、というのが、ムシュクの問いかけである。

 皆さんはどう思われるだろうか。

野口 薫(のぐち・かおる)/中央大学文学部教授
専門分野 独語・独文学
中国天津生まれ。国際キリスト教大学人文科学科卒業。1965年よりドクトレス・フォークト・ウント・ゾンデルホフ法律特許事務所、1968年から2年半、国際キリスト教大学人文科学科で働く。70年の大学紛争後、中央大学独文専攻研究科に入り直し、修士課程を修め、博士過程在学中にDAADの奨学生としてボン大学に留学。1976年から中央大学の独文科教員となり、現在に至る。
主な著書・翻訳に、『ハンズィとウメ、そして私―アドルフ・ムシュク短編集』 (Adolf Muschg著、野口薫訳、2010年)、
『ベルリン・サロン―ヘンリエッテ・ヘルツ回想録』(Henriette Herz著、野口薫・長谷川弘子・沢辺ゆり訳、2006年)、
『ドイツ女性の歩み』(河合節子・山下公子、野口薫編著、2001年)がある。