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辻 泉

辻 泉 【略歴

メディア・イベントとしての地デジ化

辻 泉/中央大学文学部准教授
専門分野 社会学

愚策としての地デジ化

 本年7月24日に、地上波テレビがデジタル放送へと移行した。すでにインターネットがこれほど普及している日本社会において、いまさら莫大な投資をして、地上波テレビをデジタル放送化することにどれほどのメリットがあるのか、はなはだ疑わしい。そう遠くない将来において、愚行・愚策と呼ばれざるを得ないだろう。

 政策面あるいは事業面についての議論は、すでに専門家の手によって積み重ねられているので、ここでは違った観点から批判的に記してみたい。私が主たる研究対象としている受け手(オーディエンス)の立場から、あの地デジ化移行の日のバカ騒ぎを思い出しつつ、この現象をどう理解したらよいのか、そして今後どう向き合っていくべきなのかを論じてみたい。

メディア・イベントという捉え方

 結論を先取りすれば、そのために役立つのが「メディア・イベント」という概念である。詳細については、『メディア・イベント―歴史をつくるメディア・セレモニー』(D・ダヤーン、E・カッツ著/浅見克彦訳、青弓社)などをご参照いただくとして、「メディア・イベント」には大きく分けて、①メディアが作りだしたイベントと②メディアによって大規模化されたイベントがある。

 前者の例としては高校野球やプロ野球が、また後者の例としては、オリンピックなどがあてはまるだろう。いずれもメディア産業が絡むことで、イベントが商業主義化し大規模化することが共通している。特に前者については、メディア産業が読者や視聴者の拡大を狙って、ニュースを自ら作り出すためにわざわざ開始したイベントであるという点に、この概念のポイントがある。誤解を恐れずに言えば、壮大な「やらせ」のようなものである。

2011年7月24日のテレビ放送

 移行当日の正午、私は家族とともにテレビの前にいた。我が家では、あえてテレビの買い替えは行わなかった。そのため、移行の数日前から、我が家のテレビの左下には、デカデカと「地デジ移行まであと○日」という表示がなされていた(明らかな視聴妨害行為だろう)。

 以前ほどテレビも見なくなっていたので、いっそこれを機会に、テレビのない生活を始めるのもいいかもねと、妻と話しつつ、むしろ6歳になる息子に、こんなことは人生で一度あるかどうかなのだからと言い聞かせ、アナログ放送終了の瞬間を体験させるつもりでいた。テレビが映らなくなった瞬間に万歳でもして、社会とは、かくも不条理に動いていくものなのだよ、と教えようと思っていた。

 国を挙げてキャンペーン活動を行い、動物のキャラクターまで作りだしていったことは、まさに壮大な(①の意味での)メディア・イベントだが、特に当日の放送内容はひどかった。

 NHKは直前までテレビ放送を回顧する特番を流していたが、やがて秋葉原の家電街でデジタル放送対応のテレビを買い求める人々の姿を映し出し、「今、一つの時代が変わっていくところです」とアナウンスしていた。そこには、一体誰のせいでわざわざテレビを買い替えなくてはいけないというのか、その視点がまったく抜け落ちていた。

 さらにひどかったのは、27時間テレビを放送していた民放局である。この日に地デジ化移行をしなかった東北の3県の様子を中継し、「東京ではデジタル放送になりましたが、そちらではまだアナログ放送が映っていますねー」と生放送で伝えていたのである。そのことが東日本大震災の影響であることには一言も触れないままであった。

 一体、なぜ地デジ化移行は必要なのか、そのことの問題点は何かといった、ジャーナリズムの観点からの掘り下げは、当日に至っても、そしてそれ以前からも見られなかったといってよい。ただ「地デジに移行しますから、みんなで移行しましょう」と喧伝しつづけていたが、これを空疎なメディア・イベントと呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 当日は、そうしたバカ騒ぎを冷ややかに眺めようと思っていたのだが、余談を記せば、我が家のテレビは、正午を過ぎても映り続けていた。どうも居住地域では、ケーブルテレビを通して配信されているらしく、デジタル放送をアナログ化する「デジアナ変換」がなされていたようだ。

 「~ようだ」と記したように、そのことに関する明示的なアナウンスはほとんどなされていなかったし、町内の掲示板には地デジ化への対応を訴えるポスターだけが大きく貼られていた。それを知っていれば、あわてて買い替えなかった人も多かったのではないかと考えると、やはり空疎な大騒ぎだったと思わざるを得ない。

インターネットを通したメディア・イベント化

 一方で、インターネットにおいても、地デジ化移行はメディア・イベントと化していた。ただし、①の意味ではなく②の意味で、である。私が家族とともに、移行当日の様子をテレビの前で見届けようとしたのも、そのことによる。

 例えば、SNSのFacebookにおいては「地デジ化移行の瞬間をみんなで見届けよう」といった集いが形成され、この現象を相対化する議論が交わされていったし、特に「地デジ化移行の瞬間」は、Twitter上でリアルタイムな議論が交わされていた。

 あるいはその後も、動画サイトのYouTubeなどで、アナログ放送終了の瞬間をとらえた動画がいくつも投稿されている。そしてコメント欄には、地デジ化に対する批判的な意見が多く寄せられ、いわゆる「祭り」といわれるような盛り上がりを見せるに至っている。

 私は、こうしたインターネットの動きの中にヒントがあるように思う。いうなれば、それは、マスメディアが作りだしたイベント(=①の意味でのメディア・イベント)を、一方的に鵜呑みにしてしまうのではなく、むしろ、別なメディアを通してその現象を大きくとりあげて問題化し(=②の意味でのメディア・イベント)、相対化していくようなふるまいである。

 我々の日常生活が、おそらくはメディアなしには立ち行かないようなものである以上、必要なのは、一方的にそれを批判するだけではなく、相対化しながら、上手な付き合い方を考えていくことだろう。

 だとするならば、テレビの地デジ化移行は愚行・愚策だと思うけれども、ただ単にそれを批判するだけではなく、別なメディアにおいて、それを相対化したり、より建設的な意見が交わされるようになってきたことを我々は喜ぶべきなのではないかとも思う。

 ただ、その際に、インターネットの盛り上がりは、極めて短期間で収束してしまうことが多いので、いわゆる「祭り」のようなもので終わらせずに、長期的にこうした取り組みが続けられるようにすることが次の課題だといえるだろう。

 我が家のテレビも、現在は「デジアナ変換」で視聴できているが、それも2016年ごろには終了する予定だという。息子は、そのころには12歳になっているが、今度こそ「テレビが終了する瞬間」を一緒に見届けつつ、メディアの在り方について今後も考え続けていきたいと思っている。

辻 泉(つじ・いずみ)/中央大学文学部准教授
専門分野 社会学

『「男らしさ」の快楽』

東京都出身。1976年生まれ。1999年北海道大学文学部卒業。2001年東京都立大学大学院社会科学研究科修士課程修了。2004年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(社会学、東京都立大学 )。松山大学人文学部専任講師・助教授・准教授を経て2010年より現職、メディア論、文化社会学が専門。各種メディアの受容過程に関する実証的な調査を手広く行う中で、とりわけファン文化に関するエスノグラフィックなアプローチをライフワークとして継続中。
主著に『デジタルメディア・トレーニング』(共編著、有斐閣、2007年)、『文化社会学の視座』(共編著、ミネルヴァ書房、2008年)、『「男らしさ」の快楽』(共編著、勁草書房、2009年)、などがある。