中西 又三 【略歴】
中西 又三/中央大学法学部教授
専門分野 行政法、公務員法等
私は行政法の研究・教育を仕事としてきた。定年まで、あと1年7ヶ月、1967年に助手になって以来44年が経過した。この間、相対的に大学の管理的業務にかかわる時間が多く、かつてはそれなりの役割をもつべきことが期待されていた研究の側面には忸怩たる思いがあり、授業についても顧みて悔いなしとはしない。
行政法学は、他の学問領域と同じように、過去における文化、学術研究や経験の積み重ねを前提にしている。この積み重ねの中で、またこれを前提として、未解明な事実はないか、解明、位置づけの間違いはないかを検討し、必要があれば新しい理論や思考方法を作っていく。こういった成果を広く公表し、公表することによって独善や誤りがないか、他者の批判をうけることになる。これが研究や研究発表というものだ。また、学生にも今までの積み重ねと、新しい理論や考え方を体系的に伝えて、学生がこのような成果を基にして、自ら、社会的なあるいは自然的な諸現象を考察し、新しい成果を作っていけるようにする。これが教育の基礎だ。こんなことは当然のことなのだが、伝えるべき過去からの積み重ねが多ければ多いほど、伝えられる理論や成果を吟味し、新しいことを発見し、新しい理解の仕方、考え方を作り出し、これを他者との批判の中で、学生に伝える時間が制約されてしまう。大学の勉強は旧態依然だとか、役に立たない空理空論だとかの批判をも受けやすくなる。
そもそも、既存の理論を伝えるにしても、その理論がどのような時空的制約の下で作られ、何を解明しようとして提唱されてきたのかを確かめてから、その内容と意義を伝えなければいけないのだが、伝えるべきものが多すぎると、そういった確認作業そのものがおろそかになり、「これはこう言われている」ということを、一見なんの疑いもなさそうに学生に伝え、それをまず、覚え込ませることに力が入れられる。伝えられた方は伝えられた方で、これは「何だろう」「何の意味があるのだろう」という疑問を持つまでもなく、ともかく闇雲に覚え込み、「試験」に備え、単位をとる、あるいは、「社会的地位をそれでとる」ということになりがちだ。本当の研究や教育はそうであってはならないのだが、「時間」がないと、ともすればこういった悪循環に陥りがちだ。そして「一般的にそう言われていることは、そう言われていることとして」、何か目新しい表現や並び替えをして新理論と称し、それを研究成果として、大学評価での研究面での自己点検での低評価を免れ、あるいは、学生におもしろおかしく謎解きをやらせて教育面での高評価を狙うというようなこともないとは言えない。大学の教員は、一般の社会人に比べて自分の自由にすることのできる時間が多いが、それは、伝えられたもの、伝えるものを基礎にかえって吟味するための時間として、保障されているとみるべきだ。
このところ行政法学が反省を迫られているものの最大のものとして「裁量」問題がある。この領域は、まさに学説の積み重ねによって教育自体がままならなくなっているし、社会が行政法学に本来期待している行政現象の法的統制の機能にも、十分応えられなくなっている。やや乱暴にいうと3月11日の原発事故などはただ「専門科学的裁量理論」や「手続的裁量論」といった「理論」だけでは正当化し得ない問題を行政法学に突きつけている。
そういう大問題でもなく、ほとんど疑問視されていないが、資源廃棄物を自治体が自己の収入源として一方的に所有権を主張し、資源廃棄物を拾得することをもって生業とすることを条例で処罰の対象としても、それは「斬新!」な政策法務の結果としての条例であり、そもそも、「捨ててあるものを拾って生業とすることなど、憲法の保障のたぐいではない」として、顧みないということが当然のことなのか、というようなこともある。
つい昨日の新聞には、道交法の放置車両の取り締まりをめぐって、放置車両の確認を委託された法人の職員に対する放置者の反抗が強まり、遺憾な状態だ、断固取り締まりを強化するとの警察の方針の記事があった。確かに違法駐車は事故の原因でもあり、よくないことだが、2~3分車から離れれば、機械的に放置車両の確認をするということは、そもそも警察権行使に要求される比例原則に反することになっていないか。それが警察業務の民営化との関係で強行されたということなら、本末転倒ではないか?
行政法学は、多様な社会現象を対象としているところから、単に理論の枠のみを重視することなく、事実を事実として踏まえるところから形成されていく必要があると思う。