河合 久 【略歴】
河合 久/中央大学商学部教授
専門分野 会計情報システム論
会計実務は帳簿操作からコンピュータ処理へと進化を遂げている。元来「簿記」なる語は文字通り企業活動を一連の「帳簿」に「記録する」ための手続きに付けられた名称である。仕訳帳、総勘定元帳などの帳簿が関連し合いながら財務諸表を誘導するという意味では、簿記は帳簿組織そのものでもある。これがコンピュータ会計に移行すると、取引入力以降の帳簿への記録の多くが省略され、また高度なIT環境の下では基幹活動(仕入、製造、販売)の取引処理の際に、財務諸表作成に不可欠な仕訳さえもが経理部門を介さずにコンピュータで処理されるようになる。こうした会計実務の進化に大学における簿記導入教育はどのように対応すべきか。
1985年にM.E.ポーターは著書『競争優位の戦略』で「価値連鎖」という概念を提唱した。これは、企業の基幹活動を、仕入から販売までの各業務の流れの中で価値とコストを付加する連鎖的活動と捉える考え方である。価値連鎖は当時、高度ITの運用を前提とする機能横断的情報活用、ビジネスプロセス・リエンジニアリング(BPR)、顧客志向経営などの経営革新を誘発する概念として注目を集めた。
だが考えてみれば、ポーターの指摘を待つまでもなく、会計は古くから価値連鎖を扱ってきたのである。例えば製造業の会計は、製造原価(生産に投入される資源の消費価値)の製品への移転過程を簿記で記録し、最終的に売上高との差額としての利益(マージン)を明らかにする。工業簿記の入門書に見られる勘定連絡図は、会計固有の複式記入を前提とする勘定間の連関に基づき企業の価値連鎖を俯瞰している。簿記は原材料の仕入から製品の販売に至る連続的な業務活動を価値連鎖の系として既にその仕組みの中に包括する機能を有するのである。簿記による価値連鎖の包括機能は帳簿組織に内在する複式記入と勘定連関の仕組みによって保証されるが、コンピュータ会計でも、両者は帳簿組織を代替するデータベースの内部構造に確立している。
簿記導入教育は、財務諸表作成までの簿記一巡の手続きの説明から出発し、その後は基本的な商的取引に関する会計処理を一通り説明して終了する、という流れで進むのが一般的である。その中に主要簿と補助簿との関連性を積極的に取り上げることにより、帳簿組織を中核とする簿記構造自体の基礎を涵養するという意図は果たせることになる。
しかし、傾向という観点からすれば問題がないわけではない。ここでは二例だけ指摘する。第一に、例えば決算段階での売上原価の把握のための三分法や精算表作成に代表されるように、コンピュータ会計、従って実務では殆ど採用されない方法が説明の中心または到達点に置かれる点である。第二に、各種帳簿に記録される情報が組織のどの部署の活動を源泉とするか、あるいは情報の流れと機能に関する説明が軽視される点である。例えば、得意先元帳(補助元帳)と売掛金元帳勘定(統制勘定)との帳簿上の関係は説明されても、売掛金情報の営業部門での販売管理機能と経理部門での資金管理機能に関する言及は少ない。
それらの問題点は、財務諸表の作成者に必要な専門能力の養成を到達目標とする簿記教育全体において、現行導入教育が正にその後の上級教育への足掛かりにすぎない、とする暗黙的な位置づけに対する筆者の疑問に由来する。筆者は簿記教育全体における高度な財務諸表作成能力の涵養を否定しないが、上例の問題点は財務会計論、管理会計論、監査論などの周辺の会計学分野を高い水準で修めた者にとってのみ正当化されるのであって、会計学の修学途上にある学生や会計学を専攻しない学生、あるいは実務で経理に携わる者にとっては誤解と混乱を招く可能性があることを危惧している。
高度IT環境を背景とした実務の進化に照らせば、簿記はもはや会計担当者のためだけにあるのではなく、経営の多くの局面において、企業の価値連鎖活動を包括的に反映した詳細な会計情報を提供できるようになった。今後は簿記全体の「導入教育」から会計と経営の「基盤教育」へと進化するように、独自の完結性を追求すべきだろう。ここでは特に、簿記一巡の手続きを教育する際に、以下の視点を取り込むことを提案したい。
およそ20~30年前に大学で簿記を学び経営の第一線で活躍されている人々から「大学の簿記教育は昔からまったく変わってないのか」と失笑を買うことのないように、真の実学とは何かを問いつつ、自戒を重ねて参りたい。