3/11夕方、能登で農山村再生に取り組んでいる「ぶなの森」で興味深いお話を伺って車で移動中に石川県の実家から携帯に電話が入る。「あんた、東北・東京が大変なことになっとんがいね(なっているよ)」。すぐ埼玉の自宅に電話するがつながらない。その後、メールで家族は無事であることがわかる。その晩、輪島市三井にある「まるやま組」の萩野様宅で、東日本大震災の衝撃的な映像を目の当たりにした。
陸前高田の菅野広紀さんの安否が気になる。菅野さんとは、2004年、岩手県葛巻町の「森と風のがっこう」で行われた「もったいねぇフォーラム」で知り合って以来、連絡をとりあってきた。Google Person Finderで生存情報を入手し、メールを送る。菅野さん宅は海から離れたところにあり、幸い被災は免れた。菅野さんは消防団の一員として被災直後から毎日救命またがれき処理にあたっていた。情報通信手段も途絶えたため、返事が届いたのは、震災から2週間後であった。
「何か必要なものはありませんか?」「モノは届き始めている。先生には、知恵を貸してほしい」そこから私に何ができるかの自問自答が始まった。
本稿では、陸前高田を例に、阪神淡路大震災と比較した東日本大震災の特徴を述べるとともに、土地・住まい・まちの再生に関する課題について紹介する。
阪神淡路大震災との3つの違い
まず第1は、規模の違いである。北海道から神奈川、長野、新潟まで広い範囲で、さまざまな影響が生じた。陸前高田など低地に役所があった市町村では、多くの職員がなくなり、行政機能が著しく低下した。
4/17 釜石
第2は、被害の多くが津波そして原発によるということである。もちろん、内陸部でも地盤や建物に少なからず被害が生じたが、局所的であり、一関から車で陸前高田に向かうと、何もなかったかのようなまちの風景が突然、ガレキの山として目に飛び込んでくると言葉を失ってしまう。また福島第1原発付近では、いまでも立ち入りができない土地が残されている。
4/17 陸前高田
そして私が最大の違いと考えている第3は、被災した地域を支えていたのは第1次産業であるということである。陸前高田では2030年、人口が約2/3になるとの予測がなされていたが、震災はそれを約5年早めた。農林漁業を基盤にした産業クラスター化を通じて雇用を生み出し、人々に希望をもたらすことが求められている。
土地・住まい・まちの再生に関する課題と提案
4/17 陸前高田
(1)土地
海抜0m以下になった土地、原発により立ち入りができない土地、そして所有者自体が不在になってしまった土地などが大量に生じた。こうした簡単に修復できない土地を誰がどう管理をしていくかが問われている。これは法律、経済、技術にまたがる大きな課題である。
(2)住まい
今回の震災から、民間賃貸住宅も仮設住宅とみなすという措置が取られた。また公有地のみならず、民有地でも多くの仮設住宅がつくられた。住田町では地元の木材と労働者を使って、木造の戸建仮設住宅がつくられた。
課題は、従来の農漁業とともに育まれてきたコミュニティの維持と心のケアである。抽選方式は、コミュニティの分断をもたらす。子供や高齢者にとって生活環境の変化は大きなストレスになりうる。陸前高田市長洞地区では、集落で確保した民有地に集落内で被災した方が暮らす仮設住宅がつくられ、集落コミュニティが維持された(ただし、住宅は集落が求めていた形式ではなく、通常のプレハブ仮設住宅となっている)。また孤独死を防ぐため、巡回する支援員や談話室・集会所を設けるなどの措置がとられようとしている。私たちは、移動手段を提供し、買物や遊び、友人・知人と会うこともケアにつながると考え、カーシェアリングを提案している。車両の共有により、「結い」の仕組みを残しながら、駐車場スペースを減らし、喫茶店、お風呂など共有の空間をつくるのがよいと考えている。
(3)まち
ガレキの状態からどのようなストーリーをたてれば、生活者の希望が見いだせるのかをできるだけ具体的に示すことが求められている。
被災前の高田松原(渡辺雅史さん撮影)
陸前高田は、気仙川が広田湾にそそぐ三陸海岸の中でも最も広い砂浜・平地を有し、江戸時代初期に地域の人たちによって植林され、その後営々と受け継がれてきた高田松原は岩手の湘南として地域のシンボルとなっていたが、津波により根こそぎ崩壊した。また地域の歴史とともに育まれてきた街道もガレキの原と化した。私たちは「グリーン・インフラ」という概念で、ガレキを高田松原の再生や気仙川のスーパー堤防化にあて、地域の自然の骨格の再生と防災対策を図る、さらに山麓の歴史的な街道沿いに仮設の市街地を早急につくる、そしてそれらを通じて、暮らしと生産の基礎の再生し、まちの顔/風格の再生を図るという道筋を提案している。
後方支援の難しさ
私が菅野さんからの連絡を受けて考えたことは、チームをつくって支援しようということであった。明治大学、東京大学、法政大学の先生方、千葉大名誉教授や中大兼任講師、またコンサルタントや会社の経営者など実務者の方々と一緒に、これまで4度、陸前高田を訪問し、また東京でも打ち合わせを重ねてきた。地元の方々と話し合い、行政が十分サービスを提供できない状況では、市民が組織をつくり、目の前の問題を議論したり、事業を行う(仕事をつくる)ことが必要だということで、NPOが立ち上がった。同時に、長期的な視点から将来まちをどうするかについて情報発信を行い、行政を動かしていくことも必要である。すなわち、後方支援には、寄り添うことと積極的に発言することという2つの役回りがある。現在、私が難しいと感じているのは、このバランスである。地元あるいは行政の動きにあわせることだけが専門家の役割ではないだろう。かといってこちらにあわせて地元も動けというのは根本的に間違っている。
農山村の再生同様、地元に学ぶという姿勢を忘れず、地域の人々の創造力やエネルギーを引き出せるよう息の長い支援ができればと考えている。
※この秋の中央大学クレセント・アカデミーでは、都市環境学科の教員が中心となって「東日本大震災に学ぶ:都市環境学科からのアプローチ(仮題)」を開催する予定です。
注
グリーン・インフラ:森林、農地、緑地など一次産業の発展と生態系維持に寄与する緑の土地資源と、防災、エネルギーなど都市経済に寄与する自然親和型都市インフラによって構成される。河川や海、街道などを通じて互いにネットワーク化され、健康増進、気象ミチゲーションなど多様な機能を保持しながら、新たな経済活動のための投資を呼び込む基盤のことをいう(田代順孝/辻野五郎丸)。